醜聞―ある女官の回想録(4)

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『そなた、男を好いたことなど無いのだろう』
『・・つい先年まで夫持ちでございました』
『別れたか』
『―戦死致しました』
『想い合って一緒になったか』
『・・・まともな家柄の者であれば、そのような纏まり方は致しますまい』
『情夫はいたか』
『殿下』
『焼け爛れそうに男をおもった事があるか。寝ても醒めても相手のことばかり考える日を送ったことがあるのか』
『―』
『その人以外の女という女が、すべて色褪せた人形に見える空しさがそなたにわかるか。その人が向こうにいると思うだけで、城壁をすら掻き抱きたくなる気持ちがそなたに解るのか』
『・・殿下』
『罪か。よかろう、裁きを下すというなら闘う。どのみち』
 このままだと俺は渇いて死ぬ、と殿下は素っ気無いベンチの上で片膝を抱かれ、そこに額を押し当てて苦しそうに息を吐き出されました。
 なんと、あの一瞬の邂逅だけでこれほど激しい想いを抱かれるものなのだろうか、とわたくしは少々不思議なほどの思いで殿下をみつめておりました。何と申しましても女性に関するお噂が絶えないお方でございましたので、殿下の中でそれほど大変なことになっているとは想像だにしておりませず、この度もその程度に軽いお気持ちであられるのだとばかり考えていたのでございます。思えばお気の毒な事ではございました。これほど想ったお方が、よりにもよって父王陛下のお妃様でいらしたのですから。
『でも、お会いになってどうなさると仰るのでございます。ゆくゆくはお二人共々に御不幸に陥られるだけでございましょうに』
『求婚したい』
『なんでございますって』
『正妃として迎えたいのだ』
『そんな馬鹿な』
 とは申しましても、全くそのような前例が無いという訳でもございません。通常、王子に御経験をお授けになるのは父王陛下の後宮の女性でございましたから、王子がそのままその女性に執心なさり続けるような場合は、父君様がお譲りになられるということも過去にはあったようです。妃の位にある方のそうした例は聞いたことがございませんが、陛下は王太子様をたいそう愛しておられましたから、殿下が心を込めてお願い申し上げれば、ひょっとするとお聞き届けになられるかもしれない、とわたくしは考えました。
『殿下、お心は承りましたが、今すぐにというのは御無理なお話でございましょう。そこまでお考えならば尚更のこと、ここは御辛抱が肝要でございます。お父上様のお許しを得るまでは、どうか無謀な事はお考えになられませんよう』
『めでたいことよ。父がそう簡単に許すと思うのか』
 と殿下は絶望的な口調でわたくしをお嗤いになられました。
『それは、簡単ではございますまいが』
『正面切って請うたところで絶対に許さぬさ、まともな男ならな』
 正攻法では無理なのだ、と殿下は物騒なことを呟かれました。若い情熱は、しばしば相手様のお気持ちを想う余裕を奪うものでございます。そのように申し上げ、どうか御無体なお考えは捨てて頂きますようにとお願い申し上げましたが、殿下は、相手の迷惑など考えていて色恋ができるものか、と尤もらしいことを仰います。
『物静かで思慮深いお方でございます、そのように一方的なお気持ちでは殿下を嫌いになってしまわれましょう』
 と申してはみましたものの、わたくしはそこで言葉を詰まらせました。この方に想われて、靡かない女性など果たしているものでしょうか。わたくしは実際のところ、そのことで巻き起こる一層深刻な騒動に自分が巻き込まれることを懸念しているのかもしれない、と思ったのです。
『心配するな。そうは言ったところで何もできぬさ』
 わたくしの懸念顔をどう御覧になられたか、殿下がそう仰いました。
『え?』
『きっと緊張で体が動かぬ』
 と、もう眉間に緊張を滲ませ、面映ゆそうに少し爪を噛んでおられます。殿下の真骨頂を拝見した気がして、わたくしはそっと溜息を落としました。気を抜きますと、こちらの心まで持ってゆかれてしまいそうです。
『ともかく、この状況では殿下の御期待には添えません。わたくしの立場を御理解くださいませ』
『忠実なる後宮女官、だな』
 出来るだけ事務的にお伝えした言葉に、殿下は苦笑いを返されました。わたくしを使うことは既にお諦めになられているようです。
『今宵の事はどなたにもお話し致しません。それは御信用頂いて結構です。ですから、どうか無茶はおやめなされませ』
 殿下はそれきり黙ってしまわれました。わたくしが使えぬなら他を当たろう、とお考えなのか、少しはわたくしの言葉に耳を傾けて頂いているのか、既に表情の消えたお顔からは何も窺えませんでした。



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