醜聞―ある女官の回想録(3)

 1  2  4  5  6  7  王室別館TOP  Back  Next
 

『では命じるのはよすとしよう。そなたに手引きを“頼む”』
 わたくしを見下ろし、殿下はそう宣言されました。青白い光に縁取られたお姿は、人の形をしていながら何故か獣を想わせます。わたくしはふと、陛下はいずれこのお方に屠られるのかもしれない、と不吉な事を考えました。
『お断り致します』
 と殿下の脇をすり抜けようと致しますと、
『他の手段に訴えることもできるのだぞ』
 殿下はその大きなお体でわたくしの逃げ道を塞ぎ、そう静かに恫喝されました。
『どのみち逃げられはせぬのだ、下手に出ているうちに折れるがよい』
 従わねば命を取ると仰られたのだと思い、恐怖よりも強く殿下をお蔑みする気持ちが自分の中をかすめてゆきますのを、わたくしはどうすることもできませんでした。
『まあ、女を相手になんという仰りようでございましょう』
 覚られまい、とすることすら馬鹿らしいと感じました。わたくしはそうして、己の目に浮かんでいるであろうその色を隠すこともしないまま、お背の高い殿下のお顔をまっすぐお見上げしたのでございます。
『解っていないようだな』
 という低い呟きが耳に届きましたのと、黒い影の中で殿下の瞳が薄赤く光ったのに気付きましたのと、どちらが早かったでしょうか。抵抗する間もありません、わたくしはあっと息をのむ間に殿下の腕に抱きすくめられておりました。
『何をなさるのです』
『女を相手にか。相手が女だからこそよ』
『おやめください、お戯れは大概になされませ』
『戯れ?戯れてなどいるものか、俺は大真面目だ。目的を達するためなら手段は選ばぬ』
『しゅ、手段?』
『そなたの体に懇願するのだ、言葉で頼んでも無駄ならそうする』
 信じて頂けますか、これがまだ成人されていない王子のお言葉なのでございます。甕を並べるための空のベンチに押し倒されつつ、わたくしはすかさず自分の膝を上体に引き寄せておき―両腕とも拘束されておりましたので―覆い被さってきた殿下の下腹を足裏で思い切り蹴り上げました。それから、怯んで思わず拘束を解いた殿下の横面を肘で打って平手で殴りましたが、激昂しておりましたので後先のことなど何も考えておりませんでした。
『・・・・・』
 殿下は、おそらく女に打たれるなど生まれて初めての御経験だったに相違ございません、お身体の下から逃れ出たわたくしの方を御覧になり、ベンチの上で身を起こして呆然と口を開いておられます。
『御無礼を』
 その御様子に頭が冷えて事の重大さに気付きましたが、それでもお悪いのは殿下でございます、わたくしが裾の乱れを直しながらそっぽを向いて形ばかりお詫び致しますと、
『・・なかなかやるな、女官にしておくには惜しい』
 殿下は暫く沈黙された後、気まずそうに仰って咳払いされました。女官と申しましても、後宮のそれはそれなりの者にしか務まりません。争うお妃様方を傷つけずに取り押さえたりしなければならない場合もございますから、相応の身体能力を持つ者が選ばれるのでございます。殿下はそれを御存知なかったのか、あるいは、そうは言ってもそれほどのものではあるまいと油断なさっておられたのでしょう。
『それはどうも』
 しかし突き放すように申しましたものの、所詮は女の力でございます。殿下がこうしたお方でなかったならば、お怒りを買ってそれこそわたくしなどどうなっておりましたことやら分かりません。
『初めてだぞ、拒絶されるのは』
 いくつも年の若い方に対して気を昂らせ、後宮女官にあるまじきはしたない真似を致しましたのが恥ずかしゅうございましたので、わたくしはずっと殿下から目を逸らしたままでおりましたのですが、ぼそりとそう呟かれたのを聞いてそっとお顔を拝見致しますと、前方の暗闇を睨み据えたまま少し口を尖らせておられます。それだけでもうなんだかわたくしの方が悪者のように感じてしまいますのは、やはりこの方の持つ魔力なのかもしれません。
『いつも女性に対してあのようなおふるまいを?』
『まさか』
 お咎め立てするつもりなどございませんでしたが、わたくしがそのようにお尋ねいたしますと、殿下は鼻先でお笑いになり、
『言ったろう、拒まれた事などないのだ。そなたはそんなに俺が嫌いか』
 と拗ねたように仰られるものでございますから、まあ、お体は大人びておいででもまだこんなところがおありになるのだ、と思わず笑みが漏れかけましたが、
(あら、いけない)
 とすぐに頬を引き締めました。お若くとも恐いお方ということを忘れて、うかうかと駆け引きにのせられる訳にはまいりません。
『嫌いも好きも、わたくしはただ殿下にお諦め頂きたいだけです』
『・・・会いたい』
『殿下』
『そなたは見ていたろう?あの人に会いたいのだ』
 それだけなのだ、と殿下は切なく目を伏せられましたが、形良い鼻梁辺りに漂う憂いも、わたくしにはもう効きません。意識なさっておられないのかもしれませんが、このうえわたくしを謀ろうとなさっておいでのようにも感じられ、内心おかしゅうもございました。
『そうしたお心を抱かれること自体、お父上様に対する罪でございます』
 わたくしがきっぱりと申し上げますと、
『知らぬのだな』
 と殿下が目を上げられました。薄闇を裂いて押して来るような強い眼差しに、わたくしは再びのまれそうになりました。



 1  2  4  5  6  7  王室別館TOP  Back  Next