醜聞―ある女官の回想録(2)

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 ひと月ほど経った日の、夕方のことでございました。
 表で用を済ませ、後宮へ戻ろうと少々足早になっておりましたわたくしを、倉庫を兼ねた渡殿の途中で王太子様が待ち伏せておられたのです。
『マジョラム、だそうだな』
 他の女官でありましたなら、このような場所にそのようなご身分の方がおいでになるという異状を忘れ、殿下に名を知って頂いていたということにのぼせあがってしまったかもしれません。ですがわたくしは、先達てのあの御様子を目撃致しております。それがあってか、王太子様のご様子には何か御決意めいたものが漂っているように感じられました。おそらくはどなたのためにもならぬ、若く穏やかならざる何かが―
『左様でございます』
『改めて会いたい』
『お戯れを』
 ごめんあそばされませ、とわたくしは露骨にならない程度にやりすごそうとしました。これはもう決して係わってはならぬ、そうでなければとんでもないことになってしまいかねない、と警戒したのでございます。
 殿下は、しかしそれでお諦めになる方ではございません。つかつかと歩み寄られ、わたくしの腕をお取りになると、主に壺を多く仕舞ってある手近な部屋へお引き入れになりました。
『今宵、月が中天に来る時間だ。ここで待っている』
 殿下は腕を壁について檻を作り、その中にわたくしを閉じ込めて耳元で囁かれました。
『参りません、わたくしは』
『いいや、そなたは来る』
 殿下は一際低いお声でそれだけ仰ると、さっと身体を離して風のように出てゆかれました。
(なんという自信家でおいでか)
 わたくしは殿下よりも幾つか年上でございますし、最初そのように腹立たしくも感じたのでございます。ですが格子状の窓から夕陽が目に差し込んできたとき―してみるとわたくしは随分とそこにそうして佇んでいたということになりますが―軽く触れられただけの二の腕がどくどくと脈打っていることに気付きました。頬をかすめた微かな顎のざらつきや、睫毛の触れる距離で見た喉仏の鋭い膨らみ、若い体の眩暈誘うような匂いを、わたくしのような女の記憶にすら焼き付けてしまわれるのです。あの方には、そのような天賦の才がおありなのでございましょう。

 夜が更けてから、件の渡殿へと忍び出ました。知らぬ顔を通すことも出来ましたが、その場合殿下は別の女官を使おうとお考えになられるだけでしょう。そうなればもう、本当に取り返しのつかないことにでもなってしまいかねません。夜廻りの衛兵が件の部屋の外を通り過ぎてから、わたくしは煌々と月光の差す出入口まで忍び足で辿り着きました。
『どうかお諦めいただきたく存じます』
 どちらにおいでなのかは判然と致しませんでしたが、暗闇に潜んでおられるはずの殿下に小声で申し上げました。目が慣れるに従い、部屋の中ほどにある大壺に凭れかかっておられる殿下の影が浮かび上がって参ります。
『入れ』
 と殿下は仰いましたが、わたくしは黙って首を振り、こちらにて失礼いたしますと声をひそめてお返事致しました。一刻も早く部屋に戻りたい、という思いからでございましたが、迂闊に近付いてまた捕まってしまえば今度こそ逃げられない、と知らず用心していたのかもしれません。
『入れ』
 と殿下は少し声を上げられました。衛兵に聞きつけられはせぬか、とわたくしは慌てました。
『大きなお声を出されますな』
『困るか。そうだな、こんな夜中に王子と密会とは。王の後宮の女が』
 呆れた仰りようだ、とわたくしは眉をひそめました。あの方はそうやって、手など触れずとも自ずから逃げられなくなる所に、女を引きずりこんでしまわれるのでございましょうか。
『立派な方と伺っておりましたのに、御卑怯なことを』
 壁を背にせぬよう気をつけながら、扉の無い部屋に入って冷たく吐いたわたくしの言葉に、殿下は低く笑われました。
『気の強いことだ』
 喉の奥で笑いながら、低く蕩けるようなお声でそう仰います。正式に成人され、太子宮に移られたのはもう少し後のことでございましたが、このような方をよく奥様がたの傍近く住まわせられるものだ、と父王陛下のおおらかさに暗い溜息の出る思いが致したものでございます。
『御用向きは存じております。手引きせよと仰られますのでしょう』
『手引き?何のだ?』
 と殿下は一転からかうような高い声をお出しになりました。
『左様ではございませなんだか。それは何よりでございました。ではわたくしはこれにて』
『出ていいと言ったか、俺が』
 こんな不遜な子供のような方に付き合わされてなるものか、と一礼して踵を返したわたくしの背に、殿下は少し苛立ったお声で仰いました。
『あなたさまのお指図は受けません』
『なんだと?』
 出口で振り返ったわたくしの申しように、殿下は少なからず驚かれたようでした。
『・・・女官の身で、無礼口も度を越しているとは思わぬか』
 昔を知る人はもう後宮にも多くはございませんが、実はこの頃わたくしは、まだ非常に激しやすいところのある人間でござました。全く殿下の仰られたとおり、腹立ち紛れに随分と失礼なことも申し上げたように思います。
『殿下、度を越しているのはあなたさまのなさりようでございます。それに、確かにわたくしは一女官に過ぎませぬが、おそれおおくも王陛下より直々に御命令を賜る身』
『後宮女官は王の言葉にしか従わぬ、と言いたいのか』
『それがわたくしどもの務めであり、誇りでございますれば』
『では訊くが、その「王」とはどの辺りまでを指すのだ?』
『なんでございますって?』
『俺は次の王なのだ。王の命に従うというならば、この俺にも従うのが筋ではないかと思うが』
 なんという傲慢な詭弁でございましょう。それもこれも御父上がこの方の気儘をお許しになってこられたからだ、とわたくしは恨めしく王陛下のお顔を思い浮かべました。
『あなたさまは王太子殿下、未だ王陛下ではあらせられません。この王宮において王陛下はただお一人』
『―よかろう』
 小首を傾げて仰られた直後です。一体いつの間にそこに移られたのでしょうか、再び踵を返したわたくしの目の前に、殿下が立ちはだかられたのでございます。



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