sweet season (5)

 1  2  3  4  6  Gallery  Novels Menu  Back  Next

「父さん?」
 明りの無い研究室を覗き込み、視線の先に浮かび上がったシルエットに、彼女は声を掛ける。
「ブルマかい」
 父はその声に振り返った。窓辺の低い棚の上に腰掛け、煙草を燻らせている。
「こんなに暗くして、どうしたの」
 この父は所構わず設計図やら工具やらを広げる癖がある。彼女は足元に注意しながら彼に近付きつつ訊ねた。
「ふむ、星がね」
 あんまり綺麗なんでな。そう言って父が見上げる冬の夜空は、夕刻まで降り続いた雨に洗われ、きんと音のしそうなほど冴え渡っている。
「晴れてくれて助かったよ。そろそろ出掛けなきゃならんのでな」
「そうなの」
「雨の中の運転は苦手だからね」
 彼は棚から降り、手に持っていた小さな灰皿に煙草を押し付けた。ヘヴィスモーカーなのだから大きなものの方が合理的だと彼女は思うのだが、そう何度提案しても、曖昧な返事をするだけで一向に改めようとはしない。
「おかしなものだ」
 父は唐突にぽつりと漏らした。
「儂は発明で世の中を変えてきたと思うよ。ちょっとした自負だ。でも儂自身のこんなところはずっと変わらないままなんだな」
 彼は手の中の小さな陶器に目を落とす。
「お前の言うように大きなものに替えれば、作業の手を止めて何度も吸殻を処理する必要はなくなるんだ。それは分かっているのに、儂はこいつを手放せない。傍に置いて使ってないとどうにも集中できんのだよ」
 心を読んだかのようなタイミングに驚き、彼女は父のシルエットをみつめた。彼はゆっくりと目を上げて彼女をみつめ返す。柔らかく下がった目尻が薄明かりの中に見て取れた。
「自分でもどうしようもない事なんだなあ」
 こいつでないといかんのだ。理屈じゃどうにもならんよ。父はそう言いながら彼女の脇を通り過ぎ、机の上に小さなそれを大切そうに置いた。
「それで、どうしたんだい?」
「え?」
「何か用があったんじゃないのかい」
 博士は白衣を脱ぎながら彼女に訊ねる。
「あ、―あのね、倉庫のキーが壊れちゃったから新しく取り替えようと思って。コントロールルームの鍵、父さんが持ってるんでしょ」
 ああ、と博士はポケットを探り、小さなカードを取り出して彼女に差し出した。何故壊れたのだと訊ねられたらこう答えよう、ああ言い訳しよう、と喉元に用意していた台詞が、無用のまま霧散してゆく。
 昂りに震える指先で解除ナンバーを打ち込もうとする彼女を押しのけ、男はあっという間にキーをパネルごと壊してしまった。いや壊したのではない、消滅させたのだ。異常を知らせるセンサーもそれで機能を失ってしまった。抗議しようと開いた彼女の口を、噛み付くようにして自身のそれで塞ぎ、男は彼女ごと扉の内側に押し入り―
「ブルマ?」
「え?あ、ああ」
 父の声に我に返り、差し出されたカードを受け取る。窓枠に掛かったハンガーに手を伸ばし、柿渋色のジャケットを取りながら、彼は娘に言った。
「実は合鍵を作ったんだ。それは持っといておくれ」
「そんな、必要ないわよ」
「いや、そろそろいい頃だと思っていたんだ」
 袖を通したジャケットの内ポケットに煙草を仕舞いながら、ゆったりと笑う。
「もう大人だしな」
「・・あたし結構いいトシだわよ」
「おや、そうだったかね」
 彼は娘の尻に軽く触れる。
「ちょっと!」
「おお、本当だ、母さんに似ていい手触りになってきたよ」
 ホント、助平ね。吐き捨てた彼女の声を背に、父は笑いながら部屋を出る。まったく。こぼしながらふと見た先に、件の倉庫があった。この窓から、父は彼らを見たかもしれない。だがその想像に彼女はあまり抵抗を覚えなかった。父は彼女を受け入れ、彼女の全てを許容する。昔から、ずっとそうだった。ただ―
 やっぱりちょっと―
 この窓に展開されたであろう自分達の余裕の無い場面を思い浮かべ、恥ずかしさに体が熱くなった。



 1  2  3  4  6  Gallery  Novels Menu  Back  Next