sweet season (3)

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 午後遅く、一服しようと仕事の手を止め、各階廊下を抜けた所に配されたラウンジに出た。ソファの窓側の席に腰を下ろし、煙草に火を点ける。  
 今手掛けている研究は、あと一歩のところで理論が堂々巡りを繰り返している。何かきっかけがあればその輪から抜け出せそうな気もするのだが、ぼんやりした視界の内ではそれを見出せそうにない。結局、根本から練り直したほうが早いのかもしれない、とも思う。
 でももう少しなのに。
 何もかもが行き詰まっている気がして、彼女はソファの上で膝を抱き、指でいらいらとそれを叩く。そして、自身のパタパタと上下する指の向こう、窓外遠く、その姿を見つけた。
「ベジータ」
 彼女はその名を声に出し、立ち上がった。雨に霞んで小さく見えるだけだが、特徴的な髪型がそれが彼であることを教える。
 何やってんの、あいつ。
 C.Cが倉庫として使用している建物のすぐ傍、大きな楡の木の根元で、彼は背を向けてぽつんと佇んでいた。葉が一枚も残っていないその木の下で、まさか雨宿りしている訳ではないだろう。
「馬鹿じゃないの」
 西の都が温暖だとは言っても、今は冬だ。あんなところにぼうっと突っ立っていたのでは、いくらサイヤ人が頑丈でも体に良いわけ無いではないか。
 ほんとに世話の焼ける―
 眉を顰めてエレベータまで小走りしながら、彼女はしかし息詰まるような閉塞感が薄れて行くことに気付いているのだった。


 もともと小柄な体が、巨木の傍でもっと小さく見える。
 彼はその果てしなく高い枝先の、隙間から覗く天を仰ぐようにして突っ立っていた。大きな雨粒が顔面に降り掛かることも気にならないのか、身じろぎもしない。彼女はその背に近づき難いものを感じながら、それでも一歩一歩、進んだ。
「何やってんの」
 さっきより降りが激しくなっている。だが足音と、傘が雨粒を跳ね返す大きな音が彼に彼女の接近を知らせたはずだが、声を掛けても男は振り返らなかった。
「身体を冷やすのは馬鹿のやることだって言ってなかった?」
 彼女は彼のすぐ傍まで来ると、かつて彼が彼女に浴びせたことのある言葉を引き合いに出した。男は沈黙している。
「この木がどうかしたの?」
 ブルマは大仰に溜息を吐きながら言い、全身ぐっしょりと濡れた彼に傘を差し掛けた。
「やめろ」
 男は初めて声を出した。その突き放すような響きに、彼女は動きを止める。傘の青い陰の中、黒髪の中から首筋に伝い落ちる水滴が、奇妙なほどはっきりと目に映った。
「構うな」
 僅かに彼女を顧みて、低く小さく、彼は呟いた。表情は見えない。
「失せろ」
 と続けたのだと思う。言葉とは裏腹に、その声は雨音にすらかき消されそうだった。たまらなくなって彼女はついに大声で叫ぶ。
「いい加減にしてよ!」
 積らせてきたものが爆発するのを感じた。傘を放り出し、男の両肩を掴んで揺さぶる。
「もういやなのよ、こんなの!あんたを見る度に気分が滅入るわ、もう嫌よ!」
 かつては触れることさえ許さなかった。だがその同じ男が、黙って自分に揺さぶられている。彼女は絶望的な気分になりながら、彼の伏目を覗き込んだ。
「ね、言って。どうしたらいいの」
 自分の声が、寒さと興奮で震えているのが分かる。その震えを耳にして、彼女は自分が芯の方から一層冷えて行くのを感じた。
 彼自身にだってどうしようもないのだと解っている。それを他人に悟られることが彼のプライドを傷つけるのだということも。ひどく残酷なことをしていると知りながら、それでも彼女は自分を止めることが出来なかった。再び彼を揺すりながら、ヒステリックに叫ぶ。
「ねえったら!」
「見なきゃいい」
 男はゆっくりと瞼を上げ、言った。薄く口角を上げ、微笑んでいるような表情を見せる。何度も彼女を傷つけた、黒く深い闇。それをより濃く彩る睫毛を、雨が伝い、雫になって落ちてゆく。
「もう俺に関わるな」
 それが出来りゃ―
 最初からそうしていた。家族でも友人でも恋人でもないこの男のために、息の詰まるような日々を送ることなど無かった。それが、出来たなら。
 頬の上で、温かいものが雨と混ざって温度を失うのを感じながら、すぐ傍にある瞳から目を逸らせない。他の一切を許さない、その色。魅入られ、溶けてしまったなら、自分は解放されるのかもしれない。この黒々とした闇の中に―
 吸い込まれるようにその黒に近付く。飲み込むように、その黒が近付く。視界が狭まり、自身の瞼が下りてゆくことに気付いた。
 冷たい水を滴らせながら、唇が重なる。浅く触れ、離れた。彼女は遠のく唇を追いかけ、柔らかく咥える。それは一瞬戸惑うように小さく震え、それから深く重なってきた。触れ合った内側の熱さが彼らの体温を急速に押し上げる。肌を伝って浸入する雨粒ごと押し入ってくる互いに、互いの動きが加速して行く。彼女の掌に触れる硬い身体が、男の手の中の柔らかな肌が、互いを求め、夢中になって距離を縮める。雨を含んだ布だけが、彼らを隔てる。
 遠く、雷鳴が轟いた。
 何かが動き始めた、そんな気がした。



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