キス (6)

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 舌打ちしながら自室のドアのボタンを押した。
 昨夜のことは思い出したくなかった。あの女がそこにいるというだけで、いやになるほど思い出してしまうというのに、その女の口からああもポンポンと自分の行為をあげつらわれると―
(くそ、酔ってたんだ)
 それだけなのだ。朝、目覚めれば、酔いも覚めて、何もかも無かったことになるはずだった。
 だがまったく気に食わないことに、彼は昨夜一睡もしていなかった。アルコールの影響なのかどうかは分からないが、頭も身体も覚醒し切ってしまっていたのだ。そしてあろうことか、あの女が彼の睡眠を妨げた。目を閉じると、腕に、指に、唇に、女の感触が甦ってくるのだ。遂に彼は眠るのを諦めて、おかしな時間にトレーニングに出掛けざるを得なくなってしまった。
 身体を動かしていると、雑念は消えた。彼は、自分がやっとアルコールの影響下から抜け出したらしいことにほっとした。爽快だった。一日中そうしていて、空腹に気付いてここへ戻った。
 リビングの暗がりに女を見つけたとき、このまま自室へ戻ろうかと思った。顔を合わせたくなかった。だが空腹に負けた。それに、彼女の気配に気付かず、うかうかとリビングに入り込んだことを、廊下から直接ダイニングへ入らなかったことを後悔したが、女のために自分の行動を変更するなどということはしたくなかった。彼は腕を組み、胸を張って、ソファの上で足を抱えている女を見下ろした。
 いつも喧しい女は、今夜はやけに静かだった。彼の食事をセッティングした後も立ち去ろうとせず、斜め向いの席に腰を落ち着け、何か考え事をしている風だった。何故、ここにいるんだ。彼はいらいらしたが、空腹に負けた。暫くは、食事に集中した。
 女が、なにやら『もう一つあるわよ』と差し出してきた。それを食べる自分を、じっとみつめている視線を感じた。味わうどころでは無かった。何を食べていたのやら、どんな味がしたのやら、思い出すことが出来ない。
 口元に伸びてきた女の手を避け、彼は反射的に立ち上がってしまった。何故だ。答えの見つからないまま再び腰を落としたとき、今度こそすぐ間近に女の指が伸びてきた。彼は、思わずそれを払い除けてしまった。
 何故、あんなことをしたのか。彼はシャワーの湯煙の中で考える。
 害など無いことは分かっている。何度も彼の身体に触れてきた指先ではないか。
(―何度も――)
 傷を手当するとき。必要ないと何度振り払っても、しつこく食い下がって来る。面倒なので、今では当たり前のように女の好きにさせていた。
 彼が重力室の爆発に巻き込まれ、生死の境をさまよったとき。女は彼につききりだった。看護師に身体を触らせようとしない彼の、包帯の交換も身体の清拭も、彼女の仕事だった。彼女になら喜んで触らせた、という訳ではないが、彼の抵抗を押し切ることが出来たのは彼女だけだったのだ。
 女がその身を寄せてきたこともあった。自分の男と喧嘩でもしたのだろう、窓辺で考え事をしていた彼の背中に、無言で身体を預けてきた。泣いていた。振り払おうと思ったが、何故か気が変わった。面倒だと思ったのだったか。彼は再び窓外に目を移し、自分の思考に戻ったのだった。
 そして、昨夜。
 隅々まで舐めるように、彼の右手に触れた。超化した彼を抱擁した。
(何てこった―)
 初めて気がついた。自分は、あの女があらゆる状況で身体に触れることを許している。今まで誰にであろうと許して来なかったことを、あの地球人に許しているのだ。
 彼は貴種であったが、物心つく頃までには、何でも一人で出来るように叩き込まれていた。子供である前に、軍人だったのだ。近侍はいたが、身体に触れる種類の世話は、余程の場合でなければ必要ではなかった。必要でないことはさせなかった。まして、必要以上に自分に触れることを許したことなどなかった。
 あれは―特別だというのだろうか。
(ちがう)
 彼は頭を振った。その髪に降り注ぐ湯が、四方に飛び散る。
 あり得ないことだ。自分以外の誰も、自分の特別になど成り得ない。特別なことを許しているのは成り行きにすぎない。やむを得ない事情があったり、面倒だったりしただけだ。
 湯を止め、バスルームを出た。白いローブを羽織り、髪の水分を取りながら、ベッドに腰掛けようとして、気がついた。  
 匂いがする。女の。
 彼のいない間に、ここへ来たのだ。それが微かなのは、シーツなどが取り替えられているからだろう。こんなところに、彼のベッドに、何の用があったというのか。
(あの女―)
 彼は舌打ちした。大方目覚めた後、昨夜のことについて彼に訊ねようとでも思ったのだろう。訪ねたけれど彼が居ないというので、それを良い事にここでもう一眠りでもしたに違いない。
 何て下品なのだろう。男のベッドに勝手に潜り込むなぞ―あれはだいたい、いつもそうだ。やりたいときに、やりたいようにするし、酔っ払ったら目も当てられない。いつでも、どこででも、とんでもない姿で眠りこけている。慎みの欠片も無い。まったく、女だという自覚はあるのか。
 彼は内心毒づきながら、ベッドに腰を下ろす。距離の近くなった分強まった香りが、女がすぐ傍に居るかのように彼に感じさせた。
(―くだらん)
 部屋の片隅の闇に、目を据える。昨夜といい、今と言い、たかが女一人のことで何を糞真面目に考え込んでいるのだ。
 彼は立ち上がり、バスローブを床に落とすと、新しい戦闘服を身につけた。このベッドで眠る気にはなれなかった。ブーツに足を入れ、先を床に打ち付けて馴染ませる。
 また徹夜になるのだろう。それで疲れを覚えたりする彼ではなかったが、こんなことに振り回されている自分が忌々しく、腹立たしかった。
「くだらん」
 彼は呟き、窓を開く。浮き上がると、その隙間から外へと身体を滑らせた。

2005.5.24
 



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