キス (5)

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「おい」
 突然響いた低い声に、彼女は飛び上がらんばかりに驚いた。声のした方を見ると、腕組みしたベジータが彼女を見下ろしている。はや傷が癒えたのか、右手の包帯は無くなっていた。
「い、いつの間にいたのよ、そんな暗いとこに、どうして、帰ってきてたの」
 彼女は今の今まで頭の中を占めていた人物が目の前に立っているのを見て、狼狽のあまり意味を成さない台詞を口走った。
「何をしている」
「何って・・ええと、お菓子を作ってたのよ」
「?ここでか?どこにあるんだ」
「ちがうわよ・・冷えて固まるの待ってたの。ちょうど出来てる頃よ。食べるでしょ」
 彼女は立ち上がり、男をダイニングへと誘った。

 男は、型二つ分作ったレアチーズケーキを、一つは食前に、あとの一つは食後に平らげた。本当は、一つは他の家人達の為に作ったものだったのだが、彼女は、彼が一つ目をぺろりと平らげた事に気を良くして、もう一つあるわよ、と差し出してしまったのだ。口の端にクリームチーズを付けて、最後の一口をもぐもぐと頬張る男を見て、彼女は笑う。
「ふふふ」
「何だ」
 笑い声に、男が目を上げる。鋭い視線とクリームチーズの取り合わせが、可笑しさを煽る。
「食べてるときは可愛いわね、あんた」
 クリームをくっつけた、この同じ唇が、自分に触れたかもしれないのだ。そう考えると、彼女はくすぐったくてたまらなくなる。
「―可愛い?」
「ほら、ついてるわ」
 彼の口元に手を伸ばしたが、届かなかった。男が顔色を変えて立ち上がったのだ。
「――」
「どうしたの」
 彼は一瞬、戸惑ったような表情を見せた。少し考える風だったが、再び椅子に腰を下ろす。彼女はその様子を見て、彼が何か大切な用でも思い出したのかと思ったが、再び腰を下ろしたので、もう一度その口元に手を伸ばした。が、その手はぴしゃりとはねのけられる。
「痛っ!」
「さわ」
 男は少なからず驚いた様子で、彼女をはたいた自分の手をみつめた。痛いじゃないのと抗議する彼女の方に顔を上げ、再び自分の手に視線を落とす。
「触、るな」
 不自然に、言葉が漏れる。男は側に置かれていたナプキンでぐいと口元を拭うと、さっと立ち上がり、食卓を離れた。彼女はそのままダイニングを出て行こうとする男に、急いで声を掛ける。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 男は足を止める。だが、背を向けたままだった。
「ね、あたしお礼を言わなきゃと思ってたのよ。昨日あたしをここへ運んでくれたの、あんたでしょう?」
 男は、ゆっくりと振り返った。その顔には、これまでこの男が見せたことのない、複雑な表情が浮かんでいた。怒っているような、聞きたくなかったことを聞いた時のような、この男に何とも似つかわしくない表現だが、悪戯を咎められる子供のような―。だが、彼が薄暗い廊下に佇んでいたため、彼女はそのことに気付かなかった。
「部屋を暖めたり、上着を掛けてくれたりしたのも、あんたなんでしょう?分かってるわ、別にあたしを助けた訳じゃなくて、まだ死なれちゃ困るからでしょ。何でもいいのよ、とにかくあんたのお陰であたしはこうしてピンピンしてるんだし。ありがとう」
 彼女は、そう言って男に微笑みかけたが、途中で凍りついた。男が、彼女を恐ろしい形相で睨みつけている事に気付いたのだ。
「あ、あの、ベジー」
「礼は必要ない」
 彼は低くそう言い捨てると、踵を返す。廊下を遠ざかる靴音が響いた。
 ―何なの、あれ。
 変なの。気に障るようなことなんて言ってないと思うけど。彼女は首を傾げたが、謝礼が済んですっきりしたし、彼の機嫌が悪いことなどそう珍しい事ではないので―尤も、ここ半月程は無かったことだが―、さほど気にすることもなかった。彼女の頭の中にはもう別の思考が巡り始めている。
(レアチーズはいけるわけね。覚えといてあげるわ)
 それにしても、おいしそうだったわね・・ホントに食べたくなってきちゃった。もう一つ作ろ。
 彼女は鼻歌混じりに、冷蔵庫から材料を取り出し始めた。
 



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