キス (3)

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 午後になっても、男は姿を現さなかった。重力室は使用できないのだし、外出しているのかも知れない。食料カプセルは少し減っているような気がするが、あらかじめちゃんと数を数えていなかったのでよく分からなかった。だが、減っているにしても幾らも持って出ていないようなので、そう長く留守にするつもりはないのだろう。
 一応、覗いてみようかしら。
 彼女は、住居スペースの最上部にある男の部屋へ足を運んだ。あれからシャワーを使って部屋着に着替え、今晩の料理の支度などをしている母親を手伝っていた。手が空いたという訳ではない。好奇心に負けたのだ。自分にも関係する、昨夜の彼の行動を確かめたくてたまらない。
 扉の前に立ち、小さく深呼吸した。声を掛ける。
「ベジータ、いる?」
 返事が無いのはいつものことだった。だが中に彼が居るなら、扉に鍵が掛かっているはずだ。開閉ボタンを押すと、果たしてロックされている。
「ちょっと開けてくれない?」
 暫く待ったが、返事も無ければ扉が開かれる気配もない。
「ね、開けちゃうわよ、いいの?」
 眠っている訳ではあるまい。声を掛けられても目覚めないなどと言うことはありえない―普通の状態ならば。
 彼女は嫌な想像をした。昨夜、重力室の崩落から自分を助ける際に、どこか傷めたということはあるまいか。頭でも打って、その時は何ともなかったが、後になって昏倒して―
「ベジータ!」
 彼女は解除ナンバーを打ち込み、開閉ボタンを押した。空気の抜けるような音がして、扉が横に滑る。一人なら、ありえない事故だ。だが、自分を抱えていて事情が違ったのかもしれない。それにいくら頑丈でも、頭部が筋肉で守られているということはないだろう。まして昨夜彼は酔っていたのだ。力加減が出来なくなってグラスを握り潰す程度には。彼女は部屋に飛び込んだ。
 窓が開いていた。エアコンディショナがフル稼働しているが、酷く室温が下がっている。男は、いなかった。バスルームにも、クロゼットを兼ねたドレッサルームにも、誰もいない。
 何よ、心配させて。
 通常、外出する際には食料カプセルを取りにダイニングに寄るので、扉がロックされていることは無いが、昨夜は、部屋に戻ってそのまま窓から出たのだろう。カプセルは自室に戻る前に手にしていたか、あるいは持ち出していないのか。
 よく考えてみれば、いくらアルコールを摂っていたにしても、自分を抱えていたにしても、あの程度であの男がそんな事故に遭うとは思えない。第一、孫悟空ひとりを例にとってみても、サイヤ人は死ぬほどの石頭ではないか。彼女は自分の慌て振りを恥じ、閉めるように言ってあるのに、とぶつぶつ漏らしながら窓に近づいた。
 ベッドには、使用された形跡があった。ロボットがシーツの交換に廻って来るのは一時間ほど後である。彼女は窓を閉め、そこに腰を下ろした。外気に晒されたせいか、夜具は酷く冷たかった。
 四角く切り取られた蒼空が見える。あの男は、いつもここから何を眺めるのだろう。宇宙の漆黒へと続く紺碧だろうか。それとも地に溢れるとりどりの輝きか。それを目にする彼の心に浮かぶ思いはどんなものだろう。星々を渡り歩いたかつての生活を懐かしく感じたりするのだろうか。
 白いシーツの上に、男が作った皺や襞が広がっていた。彼女はそれらを指でなぞり、身体をそっと横たえる。枕に顔を預けると、洗い立てのリネンの香りと、冴えた冬の外気の名残に混じって、男の身体の匂いがした。目を閉じると、すぐ傍に男が居るような気がする。やがて、その身体に包まれている錯覚を起こしそうになり、彼女は跳ね起きた。
(何やってんのかしら、あたし)
 こんなことしてられないのよ。今晩の支度をしなきゃ。
 キッチンでは、今宵の家族団欒の為に、彼女の母親が腕を奮っていた。彼女も菓子類の多くを引き受けたので、のんびりしてはいられない。立ち上がり、振り切るように早足で部屋を出た。

 陽が落ちる頃には、雪はほとんど溶けてしまって、街は無残な姿になっていた。すっかり暮れてしまうと、イルミネーションの方に目が行くので問題ないのだが。
 カプセル・コーポも例に漏れず、夕刻ごろにはまったくひどい状態になってしまった。家人は日中忙しかったので、夕食の支度が終わる頃になってそのことに気がついた。これではせっかくの室内の装飾も、窓から見える景色で台無しである。早く陽が暮れちゃえばいいのに。ブルマは母親と庭の悲惨な様子を眺め遣って溜息をつく。
 夕食の時間になっても、男は戻って来なかった。
 母親は、今日は彼が戻るのを待って食事を始めようと言ったが、ウーロンがそれに抗議した。
「あいつが帰ってくるのなんか待ってたら、全員飢え死にするかもしれないぜ」
 それは尤もだった。いつ帰ってくるのかなど全く分からない。博士とその夫人は彼を本当の息子のように思っている節があったが、彼の方は彼らに対して何の思い入れも恩義も感じてはいないだろう。極端だが、もう二度と帰るつもりが無くとも、なんの挨拶も残して行かないのは確実である。そんな男を待つなど、無謀というものだ。
「そうね、ウーロンの言うとおりだわ。先に始めてましょ」
 ブルマの一言に、母親はしぶしぶ同意し、一年に一度の、特別な食事は始まった。



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