キス (4)

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「ブルマさん、お寝みにならないの?」
 家人が寝む時間になってもキッチンにいる娘に、夫人が声を掛けた。
「うん・・なんか、レアチーズが食べたくなって」
 彼女は、型に敷き詰めたクラムの上に、クリームチーズにフィリングなどを混ぜ合わせたものを流し込みながら答える。
「まあ、アールグレイ風味ね。いい香りがしますわね。ベジータちゃんきっとお気に入りよ」
 ママにも一切れ残しておいて頂戴ね。彼女の母は、キッチンに充満している紅茶の香りを吸い込みながら、型を冷蔵庫に入れようとしている娘の背中にそう言って、キッチンを出て行った。
(・・・お見通しってわけか)
 急速冷蔵のボタンを押しながら、彼女は母親の勘の良さを少し恐ろしいと感じた。彼女は確かに、自分のためではなく、男の為に今キッチンにいるのだった。昼間作った何種類かの菓子類は、母親の作った料理と共に、未だ戻らない男の分を冷蔵庫に保管してあった。だが彼は甘いものが苦手だったことを思い出し (と言っても種類によるようなのだが、昼間作った数種類はその範疇なのではないかと思われた)、甘くないものを一種類作っておこうと考えたのだ。
(昨日は世話になっちゃったみたいだし・・多分だけど)
 感謝を伝えておきたいと思った。男がそういうことをよく理解できないようだとは解っているが、彼女の性格なのだった。彼女は、お菓子が冷え固まるのを待つため、キッチンの電気を消して、リビングに移動した。
 灯りを点けようかと思ったが、やめてソファに腰を下ろした。大きなツリーを飾るクリスタルのオーナメントが、部屋の中心で窓外の明りを跳ね返して光っているのを眺めながら、朝から気になっていたことについて考える。
 昨夜、記憶を失ったのは何故だろう。そして、その間に一体何が起こったのだろう。シャワーを使ったときに気付いたのだが、背中と肩に、小さな擦り傷がいくつか出来ていた。そして、口の中の傷。何かにぶつかって気を失ったのか。そのとき口中を切ったのだろうか。
 だとすれば何故、そして何にぶつかったのだろう。瓦礫に、だというなら無事では済んでいまい。
(ぶつかった―?)
 そうだ。大きな音に振向いた直後、確かに何かが衝突してきた。上からではない。正面から。
 あれはベジータだったのか。高速で移動してきたため目に見えなかったと考えることは出来よう。だが、それでは背中と肩の傷の説明が出来ない。
 そのとき、彼女の脳裏を、包帯を巻いた彼の右手がフラッシュした。
『ちょっと、あんた右は怪我して―』
『黙ってろ』
 衝撃波だ。
 失神、口中の怪我、背中と肩の切り傷。ぶつかってきたのが彼自身ではなく、彼の放った衝撃波であると考えれば、すべて説明がつく。おそらく間に合わないと判断したのだろう、彼女を落下してくる天井の下から重力室の外へ吹き飛ばしたのだ。そのショックで彼女は気を失い、庭の植え込み辺りに背面から叩きつけられた。そのとき背中と肩に、枝だろうか、なにかそういうもので傷を作り、口中の傷は、その同じ時か、あるいは吹き飛ばされたときに切ったものだろう。
(すごいじゃない。あたしって探偵の才能もあるんじゃないの?)
 彼女はそこから先を推理した。
 雪の上に倒れ伏す美女。側らに男が降り立つ。彼は女をその腕に抱き起こす。雪にも負けぬ白い肌。乱れかかる紫の髪。紅い唇は官能的で―彼は吸い寄せられるように彼女にキスを―
(だめだわ。これ推理じゃなくて、妄想よ)
 雪の上に倒れ伏す女。側らに男が降り立つ。いつも不機嫌そうに顰められた顔に、険をさえ漂わせて女の腕を引っ張り、うつぶせのまま雪の上を引き摺る。建物の内側まで引き入れると、玄関に女を放置し、立ち去る。
(・・・まあ、実際はこんなとこか)
 だがそれではこの後の展開にどうしても結びついて行かない。その意味では妄想の方がまだ繋がりやすい気がする。何故リビングに運び入れ、部屋を暖め、上着を掛けてやる気になったのか。
(やっぱりヤムチャが帰って来てたとか?)
 だが実はその場合、彼がどうやって屋内に侵入したのかという、セキュリティに関わる問題が出てくる。この建物の出入り口という出入り口は、指紋と網膜の認証により開閉するようになっている。彼のそれらの情報は、一昨日彼女が出掛ける前にシステムから削除されているのだ。窓は一部を除いて通常の鍵が掛けられているが、外部から破られれば即座に警報装置が作動する。今朝点検したときも、システムは異常を示してはいなかった。
(じゃあやっぱり・・)
 彼に何が起こったのか到底推し量ることは出来ないが、ベジータはともかくその後、完璧な紳士として振舞ったのだ。彼女を室内に運び入れ、部屋を暖め、上着を着せ掛けて―
(ど、どんな顔してそんなことしたんだろ)
 男はソファに美女を横たえる。そのしなやかな肢体を彼女の上着で覆いながら、白く美しい顔に乱れかかった紫の髪を、指先でそっとかきあげる。紅くふっくらとした唇から漏れる芳しい息に、彼は吸い寄せられるようにキスを―
(――あたしって想像力貧困なのかしら。妄想が毎度少女漫画みたいな展開じゃないの)
 いや、そうではない。それが自然に起こり得る状況だったからだ。
 クリスマスイブという特別な舞台設定。街も家も、男も女も、この日は特別な装いを見せる。装束や化粧だけではなく、内面も。彼女も例外ではなかった。自惚れや妄想は抜きにして、昨晩の自分はかなり美しかったのではないかと思う。
 肉体の変化が彼にもたらした精神的余裕。超化が果たされたことによって、自分以外の世界にも少しは目を向ける余地が彼に生まれたと考えることに、何ら無理はないだろう。
 そして、アルコール。直前の状況から見て、男はかなり酔っていたと思われる。あの馬鹿笑い、握り潰されたグラス。それに、何とも饒舌だった。自ら進んであんなに喋ったのは初めてなのではあるまいか。
(ま、何にしても、キスは無しよね。あいつに限って―)
 そのとき、彼女は耳の奥に甦る母の言葉を聞いた。
『ねえブルマさん、キスの後は口紅を直さなくちゃいけませんわよ』
 ―――――――!!
 彼女は思わずソファから立ち上がった。その拍子にテーブルに向う脛をしたたかに打ちつけ、再びソファに沈み込む。
(有り!?あれってひょっとしてそうだったの!?)
 脚を抱えて悶絶しながら、彼女は考える。
 もし本当にそうなのであれば、あながち勘違いでは無いのかもしれない。彼女にだけ向けられる、あの男のある種の柔らかさ。呼びかける声の響き、仕草。吸い込まれそうな漆黒の瞳に一瞬よぎる、光。伏せられる瞼。触れ合ったときに漂う、空気。彼女が、微かに感じてきたものたち。
(―でも、まさかねえ―それに、酔ってたんだし)
 酔っ払って、何となく開放的な気分になってしまうということは、彼女自身、よくあることだ。有りだとしても、特に意味はないかもしれない。
 いや、口紅の滲みはそもそも、室内に運ばれる途中で、彼の腕だとか首だとかに彼女の唇が押し付けられた結果に過ぎないとも考えられる。
(腕やら首に・・)
 身体に自分のキスマークをつけたベジータを思い描いて、彼女は赤面した。
(もう、なんで今日はこんなに赤くなるの?)
 何を一生懸命になって考えているのだ。
(別にこだわること無いじゃない。たかがキスじゃないの)
 彼だって何となくそんなふうになることがあったっていい。酔っていたのだし。
 ―そうよ。酔ってたんだから、お互いに。それでいいじゃない。
 クリスマスの奇跡だ、なんて思ってた方が素敵だけど・・・鼻で笑われそうね。



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