キス (2)

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 さっきまで横たわっていたソファに腰掛けると、ロングドレス姿の母親がダイニングの方から姿を現し、コーヒーの入ったマグカップと、雪に濡れた脚を拭くためのタオルを彼女に手渡した。
「お疲れでしょ。シャワーでも使って、もう少しお寝みになったら?」
 にこにこしながら、夫人は彼女を気遣った。彼女は手渡されたタオルを使いながら言う。
「母さん達こそ、徹夜だったんでしょ。着替えて、眠って来なきゃ」
 夜の魔法は、夜明けと共に解けてしまうものだ。間接照明の下で美しく映える化粧も、朝になればけばけばしいだけだし、眠っていない分、顔色がくすむ。ママはどうして、こんなにいつも綺麗なのかしら。彼女は朝陽の中でも魔法の解けない母親を見遣り、毎度の事ながらと感嘆した。
「んー、でもママ、昨日すごくたくさんお昼寝しておいたから、あんまり眠くないの。パパはお寝みになったんだけど」
 でもどのみち着替えてこないといけませんものね。シャワーだけでも使ってくることにしますわ。言って夫人は衣擦れの音をさせながら彼女の側を離れ、リビングの出口辺りでにこやかに振り返る。
「ねえブルマさん、キスの後は口紅を直さなくちゃいけませんわよ」
 ほほほと明るく笑いながら、廊下へと消える。軽やかな足音が遠ざかってゆくのが聞こえた。
 ・・・あたし昨日キスなんてしてないわよ。
 彼女はマグカップを口につけたまま、動きを止める。口紅がズレてるってことだわよね。熱いコーヒーを口に流し込む。それが滲みる刺激で、口中を切って、そこが少し腫れているらしいことに初めて気付いた。
 ・・イタあ・・・なんかさっきから歯が当たって痛いと思ってたけど・・
 他の事に気をとられて、ちゃんと自覚していなかった。幸い、外から判るほどの腫れではない。
 コーヒーを飲むのは諦めて、彼女は自分が腰掛けるソファの、昨日バッグを滑り込ませた辺りを手探りし、クッションの間に目的のものを探し当てた。小さなコンパクトを取り出し、覗き込む。確かに、唇のラインが少し滲んでずれている。
 変ね。
 昨日最後に確認したときは、そこは完璧なラインを描いていたはずだ。それ以降、飲み物以外は口にしていない。彼女は飲み物で口紅の線を崩すほど若くはなかったし、昨夜は酔ってもいなかった筈だ。口の中の傷といい、記憶の抜け落ちている間に、何かの拍子で崩れたのだろう。
 ペーパーを取り、拭い取って、描き直した。肌を整え、目元をチェックする。
 何故こんなことをしているのだろう。崩れた髪を下ろし、手櫛で流れを整えながら、彼女は考える。今から自分は部屋に戻り、化粧を落とし、湯を浴びるつもりなのに。何のためにこんな―
 しょうがないわよ。あいつはいつ現れるかわかんないんだから。
 こうしている今にも、あの不機嫌そうな男が姿を現すかもしれない。そうでなくとも自室に戻る廊下ですれ違うかもしれないのだ。そう考えると、彼女は自分が少し緊張してくるのを止められなかった。なんと言葉を掛けようか。
(まず、おはよう、よね。返事は返ってこないんだけど。で、昨日はありがとう、かしら)
 本当に、あの男がしたことだろうか。ヤムチャが、何か荷物を取りに戻ってきて、玄関の床にでも放置されている彼女を拾って、リビングに運んだと考える方が余程真実味がある。だが、彼ならば彼女を彼女の自室まで運んだろうし、目覚めるまで必ず側にいるはずだ。どんなに急いでいたとしても。どんなに大切な用があっても。相手が恋人でなくとも。彼は、そういう男だ。
(別れた女の部屋に入り込むのを遠慮して、リビングに運んだのかもしれないけど)
 ベジータに尋ねれば判明する事だ。分かってはいても、彼の部屋を訪問することに二の足を踏んでしまう。俺は知らん。そう言われたら―
(・・別にいいじゃない、それで)
 それとも自分は、あの男の腕に抱かれてここまで運ばれてきたと思いたいのだろうか。
 王子様に抱かれて?女の子じゃあるまいし、今さらバカバカしい。
 そう思いながらも、あの美しい身体に抱き上げられたかもしれないと考えると、自分の肌に未だそれが触れているような気がして、顔が熱くなってくる。
(やあね、あたしったら。そんな赤くなることじゃないでしょ)
 彼女は自分の頬を両手で覆い、扇ぎ、火照りを鎮めようと努めた。



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