innocent (4)

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 それから幾度かの戦いを経た。
 回を重ねる毎に負傷の程度は重くなって行き、彼は遂に半死の重傷を負った。戦場で意識を失い、三日間昏睡が続いた。
 彼は闇の中で倒れていた。
 誰かが彼を呼んでいる。女の声だった。ずっと響いているのだが、身体がだるくて声のする方を振り向く事が出来ない。ひどく眠くて、指一本動かすことさえ億劫だった。
 俺を呼ぶな。
 このままここで眠ってしまいたかった。だが、まどろんだ途端に声が響いて、彼を眠らせない。
 何千回そんなことを繰り返したのか。彼はとうとう声の響いてくる方を振向いた。塗り潰したような黒の中に裂け目があり、そこから光が漏れている。裂け目はだんだん近づいてきて、彼は光に飲み込まれた。
「ベジータ?」
 白い天井が目に入った。真傍で声がして、目の端に映ったものに視線をやると、覗き込んでいる女の視線とぶつかった。
 ひどい顔してやがる。
 自分の状況は、すぐに飲み込めた。負傷し、気を失い、どの位そうしていたのかは判らないが、今目を開いたという訳だ。女は、碌に眠っていないのだろう、青くくすんだ顔をしている。その目にはしかし嬉しそうな光があり、少し破顔していた。頷こうとしたが、睡魔に襲われ、辛うじて瞬きをしただけだった。彼の手を握る女の手に、力がこもった。眠りに落ちる彼の耳に、再び彼を呼ぶ声が届く。彼はほとんど無意識のうちに、女の小さな手を握り返していた。

 目を開くと、夕方の光が部屋に差し込んでいた。
 腕の辺りに何かが触れているのを感じた。見ると、ベッドの端に頭を預け、女が眠っている。互いの指を絡ませた彼らの右手が、彼の腹の上にあった。
 疲れているのだろう、女の眠りは深そうだった。彼の右腕にかかった柔らかな髪が、女の呼吸に合わせて彼の皮膚を微かに刺激した。
 この女はどうするだろう。
 初めて、己が死後の女の事に思いを馳せた。だがそれは、自分のどこかにずっと引っ掛かっていた事であるような気もした。
 自分の死がこの女に大きく影響するとは思わなかった。この女も、戦っている。自分がいても居なくても、その生き方を変えることはないだろう。
 思えば、妙な女だった。
 敵であった彼を自宅に住まわせた。まるで非力なくせに、彼に指図し、彼にたてついた。他愛ないことを言っては彼に笑い掛けてきた。彼と寝て、彼の子供を産んだ。
 どういうつもりだ。彼は初め、その一つひとつに首を傾げたものだ。それほど時間が経っている訳では無いはずだが、今はそれらに違和感を感じなくなっている。麻痺してしまったのか。
 しかし、彼らは互いの日常ではなかった。彼女は彼の女であるという訳ではなかったし、彼もまた彼女の男ではない。彼らには互いに何の縛めも無いのだ―尤も自分が何かに縛られることなどあり得ないと彼は考えていたが。いつ何時、前触れ無く互いが互いから居なくなってもおかしくはない関係だった。
 相性だな。
 体を重ね続ける自分たちの間にあるものは、そういうものなのだろうと思っている。肉体的なそれは、申し分無かった。少なくとも、彼にとっては。彼は女のあらゆる部分に、自身のあらゆる部分で触れた。女のあらゆるものを自分の中に摂り込んだ。一種潔癖なところのある彼にとって、そんなふうに相手を味わうのは初めてのことだった。彼女が彼に与えた深い快楽は、確かに彼の空虚を、ある部分、埋めた。
 そして、彼が見てきたどんな女よりも、彼女は彼にしっくりと来た。その空気。皮膚感。匂い。姿かたち。どんな時でも自分の傍に置いて不快ではない女に、彼は初めて出会った。
 左手を伸ばし、自分の腕をくすぐる細い髪に触れた。深く眠っている女の額髪をかきあげ、くしけずる。彼は、指の間をさらさらと髪が流れるこの感触が好きだった。だがそれは自分らしさから遠いような気がして、こうして女が深く眠っている時にしか触れられなかった。
 そのとき、部屋の外をワゴンらしきものが通り過ぎてゆく重そうな音が響いた。看護士が医療用具だか何かをそれに載せて運んでいるのだろう、金属がガチャガチャと触れ合う耳障りな音に、女が身じろぎし、目を開く。
「ああ、起きた?」
 女は、彼女が目を開く直前に左手を自分の左脇に戻して視線を天井に戻した彼の顔を覗き込み、声を掛けた。
「ここはどこだ」
 彼は、今廊下を通り過ぎて行った看護士とおぼしき人物を殺す想像をしながら―想像だけで済ませた―、訊かなくても判っていることを女に尋ねた。
「病院よ。あんた三日も目を覚まさなかったのよ」
 女は眠そうに言い、指を絡め合わせた彼の右手に額を押し付けながら欠伸をした。けだるい鼻声を出しながら甲に唇を押し当てる。
「腹が減った」
 彼は、共寝した朝を思わせる女の仕草から目を逸らし、思いついた台詞を口にする。口にしてから、いかにも場違いで間が抜けていると後悔した。
 一瞬、沈黙が流れ、女の脱力したような溜息が聞こえた。少し笑いが混ざっていた。思わず見遣った女の表情から嘲笑とは違うと解ったが、彼はむっとした。女が、足元の自分のカバンを取り上げ、菓子を取り出して彼の胸の上に置いたが、手を出す気にはなれなかった。
「どうしたの」
 女が不思議そうに尋ね、ああ、と一人で合点する。
「あんたこれ好きじゃなかったっけ」
 言って、彼の胸の上からそれを取り上げ、仕舞おうとした。咄嗟に、彼の手がそれを引き止める。
 食わないとは言ってない。
「なに、やっぱ食べるの?」
 女は再び彼の胸の上にそれを置いた。実際、空腹を感じ始めている。しかしこの板状の菓子の、不味くはないが咽喉に絡みつくような食感に、今は抵抗があった。だが目の前の食い物を取り上げられるのは嫌なのだ。食うべきか、食わざるべきか―
「水」
 と、ここで彼は喉の渇きを自覚し、短くそう告げた。女はハイハイと返事すると、痛みに小さく呻きながら半身を起こした彼の背中に、隣の空きベッドの上にあった枕を二つ差し入れ、ベッドの脇にある冷蔵庫から水のボトルを取り出して彼に渡した。彼は、2リットルを二本飲み乾し、三本目を半分飲んで一息つく。ボトルをサイドテーブルに置き、腹の上に滑り落ちた菓子を眺め、食おうかと思ったとき、女の手が伸びてきた。何がおかしいのか、にやにや笑いながらその包みを開け、一切れ割ると彼の口元に持ってくる。
 何だ、この女。
 彼は、面白そうに輝いている彼女の瞳に出合い、眉を顰めた。
「ほら」
 促されて、変な女だと思いながらも、口を開く。咀嚼しながら、自分の手元に目を落として二切れ目を割っている女の顔を眺めた。嬉しそうに笑っていた。
 まあ、いい。
 口の中に強烈な甘さが広がったが、悪くないと思った。一口目を飲み込むのを見計らって差し出された二切れ目に、彼は口を開いた。



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