innocent (1)

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 ダイニングから押し殺した嗚咽が漏れて来る。
 なんで泣いていやがるんだ。ベジータはその声に落ち着きを失う。
 ブルマは、あまり泣くことがない。
 口煩く、下品で、ひどく気分にムラがある。たった今機嫌よく話し掛けて来たかと思えば、次の瞬間にはものすごい剣幕で彼をどやしつけて来たりする。だが、涙は滅多に見せない。
 それは彼にとって好ましいことだった。めそめそ泣かれたりしたのでは鬱陶しくてかなわない。いや、そういう女だったらさっさと殺していたかもしれない。彼はそれを躊躇する人間ではなかった。
 それでも、感情が昂って涙を見せることがある。そういうとき、彼は女の顔をまともに見ることが出来なくなった。ひどく心地が悪くなって、その場に留まっていられなくなる。鬱陶しいというのとは違うが、こういうときのこの女は、どう扱って良いのか分からない。

 この日、彼は負傷して戻った。
 たいした傷ではなかったが、自身の血に濡れていない場所を探す方が難しい位に派手な姿になっていた。石畳の上に降り立つと、足元に小さな血溜りが出来た。
 またあれがうるさいだろうな。
 家の中を汚されることを嫌う女の金切声が聞こえてきそうで、憂鬱な気分になった。彼にとっては重傷とは言えないが、それでもダメージを受けたこの身体で女に怒鳴り返すのは、さすがにきついだろうと思われた。
 だが、どんな場合でも一言無しには済ませられない女なのだと思っていた彼女は、玄関が開く気配に飛び出してきたが、一言も発さなかった。彼の姿を見て一瞬呆然と立ち尽くしたが、気が抜けたせいか思わず膝を落とす彼に走り寄って来て、その身体を支えた。顔と言わず手と言わず、彼女は彼の血で濡れた。
 汚れる。
 彼は、女の白い皮膚がべっとりと赤く染まるのを見て不快になり、彼女を自分から離そうとした。だが、貧血のせいだろう、そこで意識が途切れた。
 気付くと、リビングのソファに横になっていた。僅かな間だが、気を失っていたようだ。起き上がると、彼の体をタオルで拭っていた彼女が言った。
「埒が明かないわ。お風呂まで歩ける?」
 少し頭がふらついたが、立ち上がり、一番近い浴室まで歩いた。
 衣類を取り除くと、上半身に二箇所、左の腿の後ろに一箇所、大きな傷が現れた。女はシャワーを使って彼の体中を洗い流し、水分を拭き取ると、すばやく傷口の手当てをした。それが済むと、女は彼の裸形をローブで包んで脱衣所の椅子に腰掛けさせ、正面に跪いて彼の足の水分を丁寧に拭い取った。
 こそばゆかったが、彼は黙って身体を預けていた。貧血のせいか、座っていても頭が少しくらくらする。拭い終わると、女は何故か彼の膝頭に自身の額を寄せ、じっと動かなくなった。
 なにしてやがる。
 突然眠ってしまったとでもいうのだろうか。だが脹脛(ふくらはぎ)に触れている指に少し力が込められるのを感じ、そうではないらしいことが知れた。脱衣所に充満している自らの血の匂いに混ざって、嗅ぎ慣れた女の香りが漂う。白いローブの膝の部分に、彼女の細い紫色の前髪が散っている。
「おい」
 随分長い間そうしているような気がして、彼が遂に声を掛けると、女は俯いたまま彼の膝から離れ、さっと立ち上がって後始末を始めた。髪に隠れて、表情は見えなかった。
 リビングに戻ると、彼が戻るのとほとんど同時にここへやって来ていたクリリンが、ソファの白いレザーの上にべったりと残ったベジータの血を、タオルで拭き取っていた。
「何やってんの、あんた骨折れてんでしょ」
 ブルマが叫んで彼を止める。
「いや、ちょっと座らせてもらおうと思ったんです。腕は折れてないから大丈夫すよ」
 クリリンは肋骨を二本骨折していた。足がひどく腫れているのも、ひょっとしたら折れているせいなのかもしれなかった。さっき鎮痛薬を打ったので、痛みはさほどではないかもしれないが、動くのはいかにも危険である。だがそこまでして一人掛けの椅子よりソファを選んだということは、手足を伸ばした姿勢の方が楽だということなのだろう。彼女は、ベジータが再びそのソファに腰を据えてしまったので、向い側にある一人掛けのソファの背を少し倒し、クリリンが楽に身体を預けることが出来るように工夫した。
 状況は良くなかった。彼らが戦った二体の人造人間は、彼らの力と予想を遥かに上回る強さを備えていたのだ。
「悟空が生きてたらなあ」
 クリリンは、あの太陽のような男を知る誰もが口にする言葉を、悔しさを滲ませて漏らした。



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