innocent (3)

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 女の小さな気の乱れを感じ、彼は思考を中断される。ダイニングから小さく嗚咽が漏れるのを、彼の鋭敏な聴覚が捉えた。
 何を泣いてる。
 彼は訳の分からない戸惑いに襲われた。たった今、凪いだように静かだった自分の内側が、ざわざわと波立つのを感じた。
 彼にとって彼女は、こんなふうに自分を引っ掻き回す忌々しい存在だった。だが、抱くと心地よく、ぴったりと彼に馴染む。腹が立った。女にではない。溺れてゆく自分に。それを手放し難いと感じてしまう自分に。
 どの位時間が過ぎたのか。嗚咽は聞こえなくなった。
 彼は、ざわついていた自分の内部が静かになるのを感じ、入れ替わるように喉の渇きを覚えた。暫く、ダイニングから女が去るのを待ったが、彼女がそこから動く気配は無かった。
 何をしてるんだ、俺は。
 さっさとダイニングを抜けてキッチンへ入り、冷蔵庫から水を取り出し、喉を潤せばいいのだ。何故自分は、女が立ち去るのを待っているのか。
 馬鹿馬鹿しい。彼は舌打ちして立ち上がった。女がいるダイニングへと大股で歩を運ぶ。
 通り過ぎざま目をやると、女がテーブルの上に肘をつき、組んだ指の上に額を乗せ、俯いたままじっとしていた。彼が冷蔵庫からボトルを三本取り出して、一本を煽り、二本を手に戻る際にも、女は同じ姿勢のまま動かなかった。
 さっきから俯いてばっかりいやがるな。
 よした方がいい。そう思うのに、彼は女に声を掛けた。
「おい」
 女は返事をせず、顔を上げようともしなかった。
 気に入らん。
 無視されたことがか。それとも女の顔が見えないことが、なのか。
 眠ってはいない。時々微かにしゃくりあげるような呼吸が彼女の体を揺らしている。彼は女に近づき、片方の肩を掴んで彼女の身体を自分の方に捩った。背けられた顔は、髪に隠れて見えなかった。彼は水のボトルをテーブルに置き、少し冷たくなった手で女の顎を掴み、自分の方に向けさせた。
 彼はひどく後悔した。女の情動はまだ治まった訳ではなかったのだ。化粧気の無い顔は未だ濡れ、その目は涙で膨れ上がっている。女は憮然とする彼の手を払い除け、テーブルに突っ伏した。
「貴様、さっきから何なんだ」
 彼は再び自分の内部がざわつくのを感じる。女に掛けた声には困惑の色が滲んでいた。彼女は顔を上げずにくぐもった声を出す。
「たまにはあたしだって泣きたくなる事くらいあるわよ」
 いいじゃない、放っといてよ。最後の方は、揺れて聞き取り辛かった。
 そうだ。放っておけばいい。
 彼はしかし、例えば自分が自室へ引き揚げたところで、自身の内側の波立ちが治まる訳ではないという気がした。
「やめろ」
 彼は短く自分の要求を伝えた。女はしかし、今度は声を上げて泣き始めた。
「いいからもう、あっちいってよ」
 少し不安定な呼吸の下から、女が声を上げる。
「泣くな」
 彼は命令した。苛立ちか、焦りに似たものが彼の中に湧き上がってきた。
「うるさいわね」
 あんたに関係ないでしょ。女は突っ伏したまま彼のいないほうへ顔を逸らした。
 彼は舌打ちした。関係無いのは分かってる。だが止めさせねばならない。不愉快だ。いや、不愉快だというのとは少し違う気がするが、とにかく止めさせねばざわつきが治まらないのだ。
 彼はこうした場合に取るべき行動を知らなかった。だが、どうすれば女が泣きやむのかは分かった。彼は女の腕を掴んで引っ張り、その身体をテーブルに投げ出した。
「何すんのよ!」
 女が身を起こしながら叫び、睨みつけたが、彼は躊躇せずに女を組み伏せた。女は抵抗したが、彼はそれを押さえつけ、彼女の口を自らの口で塞いだ。女は逃れようとして暴れる。上下の唇を固く閉じ合わせ、押し入ろうとする彼の舌を拒絶した。だが彼の手が彼女のワンピースの裾から侵入し、下半身を滑り始めると、彼女の唇は敢え無く緩んだ。それでも、口中を侵す彼の舌を押し戻そうと自らのそれに力を込めたが、するりと滑ってお互いが絡み合っただけだった。
 女から全ての抵抗が失われたことを確認して、彼は唇を離した。唾液の透明な糸が、連結が解かれるのを惜しむように彼らを繋いだ。
「最低だわ、あんた」
 息を弾ませながら言い、女は閉じていた目を開く。非難の色を湛えていた。それを潤ませるものが、彼の内部を波立たせるものの名残なのか、あるいは上昇し始めた体温によって湧き上がったものなのかは判らなかったが、彼は女の表情から消したかった色が失せていることに満足し、片頬を上げて笑い、彼女の耳元に口を寄せて低く囁いた。
「今頃気付いたのか」
 彼は女の衣服のV字にくれた襟元に両手を掛け、一気に引き裂いた。彼の血を吸ったその生地の黒から、女の肌の白が零れ出る。眩しいと感じた。傷の痛みは、失せた。



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