その朝空はまぶしく輝く (3)

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 視線を感じ、彼女は我に返った。
 すっかり汗の引いた彼女の背中を、見るとはなしに男は見ている。普段「なんとなく」行動するということが無いこの男のそんな視線を、彼女は軽い驚きをもって受け止めていた。
 どうしたのだろう。さっき自分を抱いているときもちょっと尋常ではなかった。こんなに疲労困憊するまで責め続けられたのは初めてだ。そういえば昨日は満月だったようだが何か関係があるのだろうか。月に支配されるのは女だけだと昔は思っていたけれど。
 彼女はそこまで考えて自分の身体が冷え始めていることに気付き、毛布を肩まで引き上げた。枕に顎を乗せながら、煙草を取ろうと再びサイドテーブルに手を伸ばす。
 ああ、こっちじゃなかったんだわ。
「ね、タバコ取ってくれる?」
 彼はゆっくりと自分の側にあるサイドテーブルに目を遣り、ひどく緩慢な動作で彼女の煙草のケースを手に取った。ライターもね、言いながら彼女は枕の下から手を出して彼に掌を向ける。だがそこにそれらの重みは掛かっては来ない。ん?と彼を見遣り、彼女は呆気にとられた。
 男が、一本取り出し、その形の良い唇に咥え、テーブルから手の中にライターを滑らせ、火を点そうとしている。
 ゆっくりとした、流れるように優雅な動き。炎に照らされた伏し目の横顔。
 彼女は心臓がどきんと跳ね上がり、顔が赤らんでくるのを感じた。昇り始めた血は止まらず、耳、首、胸、と次々に熱くなる。
 やだ、何これ・・・薄暗くて良かったわ。
 傍らにいる男が「気」を感じる能力を持っていることを忘れ、彼女は上昇する心拍数を悟られまいと、男から目を逸らしそっと枕に顔をうずめる。男はライターをテーブルに戻しながらひっそりと笑う。自分の気を逸らそうと、彼女は思考を回転させる。
 今日こそは引きかけの設計図を仕上げてしまおう、あとは一昨日持ち込まれたバイクの改良を済ませて、いや、その前にちょっと朝寝して・・
 差し出していた腕を掴まれ、彼女はプランニングを妨げられた。顔を上げると、男は掴んでいた腕を離し、彼女の目の前に火の点いた煙草の吸い口を差し出した。
 見上げると、黒い瞳とぶつかった。吸うんだろう、と促しているようだった。唇を開いて受け取ると、下唇に男の人差指の背が触れた。彼女はそこがさっきまで自分を支配していた熱のせいで、いつものふっくらとした潤いを失っているのを酷く惜しいと感じた。男はテーブルの上から小さな陶器の灰皿をとり、彼女と自分の間のシーツの上に置く。彼女は一口深く吸い込み、顔を背けて静かに煙を吐き出した。
「タバコ、いつの間に覚えたの」
 覚えた訳じゃない、男はやっと低く答えた。喉が渇いているのか、少し声が掠れている。
「まあ、よかったわ。頭でも打って口がきけなくなったんじゃないかと思ってたのよ」
 彼女は赤面が治まってくるのを感じ、少しほっとしながら軽口を叩く。体を起こし、男の左腕の下に潜り込むと、胸の辺りに頭を凭せかけた。毛布の掛かった硬い腹の上に灰皿を置く。
「お前が吸ってるのを見てりゃ火くらい点けられるようになるだろ」
 どこが良いんだか俺にはわからん。男は不機嫌そうに低く感想を漏らした。彼女はそれに微かな違和感を覚える。そうなの、父さんにでも勧められたのかと思ったわ。男の呼吸に併せて上下する皿に灰を落とし、自分はこの男に喫煙を勧めたことはなかったなと思いながら彼女は呟いた。
 地球における彼の生活の全ては彼女が提供したものだった。自分以外の誰かによって調えられた何かが今の彼の生活の中に存在するとは彼女には思えない。それは衣食住に直結するものだけではなく、この星に於ける習慣やある種の知識、教養の類に至るまで全般に渡る。
 彼はそれらが無くとも生きて行くことは出来た。力こそがすべて。そういう世界に生まれ、生き抜いてきた男だった。今までそうしてきたように、この星の全てを奪いつくす事は、彼にとってそれほど時間と労力を要することでは無かったはずだ。
 だが、彼はそうすることを選ばなかった。興味が無いようにも見えた。ライバルを待つ二年の間も、トラブルさえ引き起こすことは無かった。不思議な少年の口から衝撃の未来が告げられたあの日以来、今日に至るまで、激しい訓練で何度も爆発を起こしたり、地形を変えてしまったり、自身が死にかけたりして、彼女を繰返し激怒させたり死ぬほど心配させたりはしたけれど。きまぐれなのか、来るべき日までの仮の宿として確保しておくつもりなのか、あるいはこの星がある種の手強さを彼に感じさせるからなのか。ともかく彼は今のところこの地球に留まり、大人しくとは言えないが、ここカプセル・コーポで寝起きしているのだ。
 頭は悪くないって訳ね。
 役に立つものは活かしきるだけだ。彼は「何故」と尋ねられれば必ずそう答えるだろう。実際、彼女や彼女の父親を含め、ここには彼の役に立つものが多くある。それらを利用しているというのは事実だろう。ただ殺し尽くすしか能の無い戦闘馬鹿とは違う。 
 けれど彼女は思うのだ。来るべき日が来た後、彼や自分たちの運命がどんな風に動いていくのかは分からない。この男が地球を離れることもあるのかもしれない。もしも、彼のライバルが彼に敗北を喫し―尤も彼女は自分の友人が負けることなどありえないと実は思っているのだが―、そして彼がその本能(と自ら呼ぶところのもの)を開放する日が来たとすれば。
 この男はどうなってしまうのだろう。
 自分の心配をしたらどうなんだ。本人が聞いたらそう言って嘲笑するに違いないだろうこの言葉を、彼女は自分でもちょっと呆れながら反芻する。
 いつだったか、降り注ぐ月光の下、窓辺に佇んでいた孤独な背中を思い出して、彼女は自分の瞼が涙で膨れ上がってくるのを自覚した。
 あのとき、愛おしさに似た思いが彼女の内側を満たし、そして溢れた。その背に寄り添わないではいられなかった。邪険にされるかと思ったが、彼は少し驚いて、しかし黙って彼女に背中を許していた。何泣いていやがる。またあの男と喧嘩して酔っ払ってでもいやがるのか。まったく飽きもせずよくやるな。振り払うのも面倒くせえ。内心、そんなところだったかも知れない。そして次の朝には彼らはまた殆ど掴み合いに近いような大喧嘩を繰り広げ、恋人や同居人たちをハラハラさせた。彼女はその模様を思い出し、ふふ、と小さく笑みを漏らす。
「・・何を笑ってやがる」
 なんでもないわ、思い出し笑いよ。あんたともよく喧嘩したわよね。彼女は彼の方を見ずにそう答える。笑ってはいても、まだ濡れている自分の頬を見せたくないと思った。眉間を押さえ、目元を押さえるふりをしてそっと指で涙を拭う。今もだろう、それにあれは喧嘩じゃない、貴様が一方的に突っかかってきやがるんだ。彼はそう言って鼻を鳴らす。そういうこともあるかもね。しかし彼女はそれを声にはしないでくつくつと笑う。
「お前は何で覚えたんだ」
 男が唐突に言った。暫く自分の思考に沈んでいた彼女には、一瞬何のことか分からなかったが、すぐに煙草のことだと理解した。そっと火を揉み消しながら彼女は記憶を辿る。
「なんでって・・そうね・・」
 そうだ、むしゃくしゃしてたのよ。十年以上前になるけど。あいつったら浮気してくれちゃってさ。彼女は半年程前に別れた恋人の名を口にした。昨日の朝、彼がここに自分の荷物を引き取りにやって来ていたことを思い出す。二時間程度だったがリビングでお茶を飲みながら近況などを話した。お昼を食べて行くかと尋ねた時、重力室のコントロールがおかしくなった、早く直せ、という男の怒声が響き、それが彼を玄関へ追い立ててしまったのだ。
 その時。
 男の身体がピクリと反応したのがわかった。密着していなければ決して伝わらなかっただろう小さな反応。胸に預けた頭に少し早くなった鼓動が伝わってきて、彼女は男の顔を見上げた。
 彼は一瞬目を泳がせ、不機嫌そうに睫を伏せる。顔が少し赤い。太陽を孕んだ空の色だけが原因とも思われない。
 ああ、そうか。
 タイミング良く壊れた重力室。昨夜からの無言の抱擁。煙草についての不機嫌な感想。
 そういうこと。
 彼女は笑いたいのを堪えて男の顔を覗き込む。彼はそっぽを向き、何見てやがる、と低く唸る。
 無駄よ、バレてるんだから。目だけでそう言って、彼女は彼の腹の上から灰皿を退けて彼に向き直る。立てた右膝に置かれた彼の右手の指先が、内心の動揺を鎮めようとしているのか神経質そうに動いたのが目の端に映った。



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