覚醒(5)

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『・・・役割を果たせと』
『その通りだ。詮索は必要ない』
『后ではないのだから?』
『そうだ、そなたは賢しら口が多過ぎる』
『では后にして下さい』
『―なに』
 王が彼女の乳房を掌で覆ったまま、動きを止める。
『必ず太子を差し上げまする。その代わり、その暁にはわたくしを王后にして下さいませ』
 大変な事を言った、という自覚はあった。だがこの台詞が口を突いて出たとき、彼女は自分が一歩高みに登ったことを確信した。理屈ではない。ただ、分かったのだ。
 后位は、必ず埋めねばならぬものではない。どころか歴代、后を置いた王は稀である。現に舅である前王も后を持たなかった。むしろ埋まらぬ事がほぼ常態化していると言って良い。後宮入り以降、最も后に近い妃と呼ばれ続けた彼女だが、その“后”とはつまり慣習的に“次期王の生母”を指しているのであって、ほとんど誰も、それを本来の意味を以って使ってはいなかった。
『后だと』
『はい』
『そのようなもの置くつもりはない』
『悪いお話ではないはずでしょう?思し召し以上に、陛下のお力は高まるかもしれません』
 憮然とする王の顎鬚の根元を擽り、彼女は優しく囁いた。妃が単なる妻妾で、数に制限が無く公人としての力を殆ど持たないのに対し、后はたった一人、王と並び立つ強大な権力を持つ。有事の際には即刻王に成り代わる立場なのだから、生半(なまなか)な女に務まるものではないが、その生半ではない人間にそれだけの地位を付与するのである。后とは諸刃の剣であり、それを置くことは大博打だと言えた。上手く操縦出来たなら、王室の威は倍加する。王が二人に増えるからだ。だが王にその能力が無い場合、下手をすると破滅である。
『后が、怖うございますか』
『・・なんと申す』
『わたくしを掌で転がす事は、お出来になりませぬか』
『余を挑発しているつもりか』
『利用なさるべきです、わたくしを。最大限に』
 登極には、条件がある。出自であった。しかるべき貴族の前にだけ、その門は開かれる。その上で重臣どもを黙らせる実績を持ち―手っ取り早くは太子の生母になり、己が血の持つ力を証明することだ―、伴侶として王が認め、初めて后が誕生する。そして彼女はこの後宮で一握りの有資格者、「しかるべき貴族」なのであった。
『そしてそなたは、余を利用するか』
『そうね』
 お望みなら搾り取って差し上げます、と喉を鳴らして笑う。
『何が欲しいのだ。力か?王のように振る舞いたいか』
『外に出たいのです、もう後宮には飽きあきしました。ここは』
 わたくしが生きる場所ではありません。乳房から腿に落ちていた王の手をゆるりと持ち上げ、彼の肩に身体を預けて繁々それを見下ろしながら言った。正直なところだ。短い期間で、あまり後宮向きではないらしい、と彼女は自分を評するに至っていた。軍人だった日々が懐かしい。確かに、こうした世界でこそ能力を発揮する女もあろう。だが、彼女は違っていた。
 使い物にならぬ子しか産まない女を、王はそれでも寵愛する。それは―単なる女としてこの王に求められるという事は―彼女にとってはもう望み薄であるらしい、とさっき判った。だが期待されている役割はある。おそらくは彼女にしか果たせぬ役目だ。少なくとも王はそう考えている。その大きさ、重さこそが、自分には相応しいのかもしれない。
 太子を産めば、王はもう彼女を咲かせ続けようとはしないのだろう。彼の指先は、濃密ではあっても冷ややかである。前夫が彼女に注ぎ続けたような熱が無い。情愛も伝わって来ない。女一人、女として殺すことなど何とも感じないだろう。であれば、そうなる前に彼女は解き放たれるべきなのだ。ここで枯れることも、醜く歪んでゆくことも許されないし、似つかわしくない。力なぞ、どうでも良かった。后になれば、後宮を出ることができる。遠征に参加することも出来る。だから后位が必要なのだ。今はただ、それだけだ。
『大きな御手ですこと。爪の形が美しい』
『・・・では、どこで生きると申すのだ』
『申し上げましたでしょう、ここ、ですわ』
 笑みを浮かべ、彼女は王の掌をその爪先でくるくると掻く。それから、今度は彼女が王の帯を引いた。王は難しい表情で考え込んだまま、侵入してくる指先を感じている。

 彼女の懐妊が奏されたのは、その二月後である。
「―恐い女だ」 
 陛下は絶句され、一言そう仰ったきりでございました。報告する女官長の訝しげな視線を受け、彼女は薄く笑う。美しい女など見飽きている女官達を、その謎めいた微笑は陶然とさせた。

2008.4.20



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