覚醒(2)

 1  3  4  5  王室別館TOP  Back  Next
 

「まあクコアだわ、嬉しいこと」
 女官が運んできた食器から湯気を上げる飲み物を見て、チコが目を輝かせた。
「お好きなのですか」
「ええ、大好きです。何月ぶりかしら」
 妙な人だな、と彼女は首を傾げる。好きだというなら、毎日でも喫すればよいではないか。
「高価ですもの、なかなか」
「これが?」
「額に付けておられる、それ」
 と女が自分の額を指し、彼女の額を少し上目遣いに見る。彼女はその日、そこに指爪ほどの宝石が揺れる額飾りを着けていた。
「その宝石を売っても、お妃様方全員に一杯ずつ行き渡るかどうか」
「そうなのですか」
 と答えてはみたが、実はこの装身具の価値からして知らなかった。ちりちりと小さくて透明な粒石に囲まれ、褐色に光るさまが、何となくその午後の気分だったというだけだ。
 これに限った話ではない。朝、着付けの最後に女官が箱を恭しく差し出し、ぬめったように光る赤紫の蓋を開く。中に、衣装に合わせた装身具が幾種類か入っていて、彼女はそこから気に入ったものを選び、待機している別の女官に示す。昼は昼、夜は夜で同様の色直しがある。気に入ったものが無いなら無いで良いし、別のものが欲しいならそのように告げる。その一つひとつの価値だとか薀蓄など、あまり考えた事がない。彼女にとって宝石や衣装とは富貴の象徴ではなく、ただ好きか嫌いかという感覚的なものに過ぎなかった。
「やはり生まれながらのお姫様なのですね。物の値などこまごまとは御存知なくて」
 女が、沈黙している彼女を見てふうと溜息を落とす。嫌味でも呆れたふうでもなくて、むしろしみじみと感心しているようであった。彼女はというと、
(おおどかに見えても市井に生きた経験のある人よ、わたくしの知らない事を色々御存知なのだ)
 と目の前の女にやはり感心している。
「お好きであれば、陛下にそう仰ってはいかが」
「そんな」
 大事そうに感慨深げに飲み物に口を付けていたチコが、彼女の言葉に驚いてコン、とむせた。
「陛下に無心するなんて・・ここに置いて頂くだけでも勿体のうございますのに」
「でも、陛下はあなたをたいそう大切にしておられるようですけれど」
 王には存外吝嗇なところがある、と彼女は見ていたが(軍事費はいくらあっても十分ではないからだ)、寵妃のささやかな無心を喜ばないほど狭量な男ではないだろう。そう思って口に出した言葉だったが、チコは大きな目をもっと大きく見開き、いいえ、とかぶりを振る。
「陛下は、わたくしを憐れに思し召されてお側に置いて下さるのですわ。お優しい方ですから」
 と、また言った。
「お優しいですか」
「そう思います。決して乱暴な事はなさいませんし・・お声なども、政の場では違うのかもしれませんけれど、低くてとても柔らかくて、お会いする度に心安らぐ思いが致します」
 なるほどこの女には舐めるがごとく優しいのかもしれない、と鼻白みながら訊いたのだが、考えてもみなかった答えが返ってきた。そんな事が取り立てて言うほどの美点だとは、彼女には思われない。
「他の方は、そうではありませんのか」
「他の方皆がそうでないとは思いませんけれど・・・わたくしがかつて歌舞をして仕えておりました人は、酔うと奥様方や侍女の方たちを打擲するということもありました」
「まあ、あなたも打たれたりなさったのか」
「何度かは。でもわたくしなどは非常に恵まれていたほうで、別のお館に仕えた仲間の内には、ある日突然消息が判らなくなった人や、因果な性癖を持った主に仕えたがために、毎日爪を一枚ずつ剥され目玉を繰り抜かれ歯を抜かれ鼻を削がれて、最後には舌まで抜かれて死んだ人もおります」
「されるがままになっているのですか、その人たちは」
 と彼女は少し声高になった。近年まで少数種であったサイヤ人の男は、本能的に女を大切にするものである。しかし、その大事な女を、という事よりも、誇り高かるべきサイヤの女が、とむしろそちらの方に憤りを覚えた。
「逆らったところでどうしようもありませんもの、死を早めるだけです」
「ならば、辞めればよいものを」
 と言った彼女を、女は慈しむような目でみつめた。相手に屈辱を感じさせないでそうしてしまうところが、この女のこの女たる所以なのかもしれなかった。
「わたくしどもは買われた身でした。そのような自由はありません。逃げれば逃げたで殺されまする。現にそうやって命を落とした人も少なくなかった」
「なんと仰るのです、人身売買は厳しく禁じられているはず」
「それは陛下が御即位あそばして以降のこと。陛下は、そうした境遇からわたくしども全員を救い出して下さいました」
 そう言えばそうだ、と彼女は軽い興奮から醒めた。彼は、王として初めて奴隷の遣り取りを禁じ、彼らとその主との間に正式な雇用契約を結ばせた。サイヤ人のすべてはサイヤの国家に属するものであり、個人が所有してはならないと定められたのである。その前提として全網羅的な籍帳が必要になり、以前は各領主が勝手な方法で行っていたその管理が、新旧問わず国家によって統一的に行われる事になった。これを以って初めて、新生児を含む星全体の人員が正確に把握されるに至り、その全てについて戦士としての適性を調査することが可能になったのである。
 これは軍事的に非常に効率の良い方法であると同時に、戦士としては使い物にならない人間にも活路を敷く事になった。そうした者は、それまで人としては“存在しないもの”として扱われ、チコが語ったように奴隷として遣り取りの対象になってきたのだが、それが禁じられたことで、非軍事・準軍事分野に彼らを活かし、働き手として能力を発揮させることが可能になったのである。近年、かれらの中から学術・医術・芸能などの分野で優れた才能が続々と輩出されつつあるのは、この結果であった。やりようには賛否両論湧いたが、これを以って王は彼の顔すら知らないような下々にまで崇拝されるようになり、その威光は一層高まることになった。
「あなたさまは、とても美しい方なのですね」
 なのですね、とはどういう意味だろうと訝しんでいると、チコはふっと寂しげな微笑を浮かべた。
「お姿もですが、御性情がお美しい。この上ない方を得られて、陛下はお幸せです」
(尻が青いと言いたいのか)
 だとすればそれは違う、と曲げて考えかけたが、馬鹿らしくなってやめた。それはともかくとして、他の多くの女達と同様、この女も彼女が王を独占しつつあると感じているらしい。彼は後宮に渡るつど彼女の部屋に入るのだから、そう考えるのも無理はなかった。
(なんというお人だろう)
 と目を見張るような思いで、彼女は目の前にある顔をみつめる。どこかしらが少々痛むといった風情はあるが、屈折がない。血脈の歴史という荷が無いゆえに身が軽く、それゆえ直情的な者の多い下賎の出自ならではなのか。焦燥や嫉妬など押し隠している部分はあるのだろうにせよ、己の感情の一部でもそのまま表情に乗せるなど、まともな出自の者には出来ないことだ。
 ふと、母の白い横顔が脳裏を過ぎる。
 少女の頃のような憧れではない。だがあの悲壮なまでの気高さを、彼女はずっと忘れる事が出来ないでいた。
『可愛らしい方だこと』
 父の新しい女が屋敷に入るたび、母は鷹揚に頷き、あの人を良く世話してやって下さいなと微笑んでいた。女達は圧倒されていたものだ。耐えられず、そのまま屋敷を出て行った者もいる。それほど、母は美しかった。同じ女に生まれながら、と他人が深く切り裂かれるほどに。あのろうたけた綺麗な顔は、その内側の憤りや悲しみを他人に教えた事など、多分一度も無かっただろう。
「陛下は、わたくしと取引なさったのです」
 とは口に出さず、彼女はただ曖昧に微笑んで沈黙を守った。目の前の女の素直に、また分際を弁えながらも卑屈にならない態度に、好感を覚えた。王がなぜこの下賎の女を寵愛するのかも、よく理解できる気がした。だからこそ、口を噤んだ。生まれ変わりでもせぬ限り、人好しになどなれそうもない。彼女もまた、貴族であった。



 1  3  4  5  王室別館TOP  Back  Next