明と暗(1)

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 心地良い風に藍色の薄物をたなびかせながら、后はバルコニーで目を細めた。眼下に、照り輝く午後の後宮が広がっている。
「美しいこと」
 呟いた彼女を仰ぎ見て、古参の女官であるチャーガが妙な顔をした。ついさっき、相も変わらず後宮はつまらない、と表から戻った彼女がこぼすのを聞いていたのであろう。確かに、好きではない。だが立后の際、彼女の住まいとして新築されたこの館があるし、実際がどうあれ―事実上後宮を支配しているのは女官長だと彼女は思っている―ここに住まう女たちを纏める責任を負う立場上、基本的に表の用が済めば戻るようにしている。それに、戦時以外は表もそう面白い所ではなかった。
「王子様は、お健やかにお過ごしでいらっしゃるのでしょうか」
 背後から、若い女官が遠慮がちに訊ねた。王子、とは后である彼女が産んだベジータ王子のことである。
「よう知らぬ」
 后は室内へと踵を返しながら、その問いを軽く受け流す。ばかね、お后様はお子様嫌いでいらっしゃるのに。奥へと向かう彼女の背を、別の女官がたしなめる声がひそひそと追った。追われている、と感じるのは何故なのだろう。柔らかく翻る室内着の足元を捌きながら、彼女はふと心よぎった自分のおもいを眺める。
「少し眠ります。皆下がってよい」
 と長椅子に腰を下ろすと、間髪入れず茶の一式が運ばれてきた。彼女はそれに少しだけ口をつけ、そのままそこに長々と身を横たえる。
「陽を遮りなさい」
 とチャーガが命じるのとどちらが早かったか、二人の女官が足早に窓へと近付いて分厚い金茶のカーテンを引き、長椅子に伸びる午後の陽を遮る。それを見届けてから古参は彼らを退室させ、
「午睡であれば御寝所がございましょうに」
 と振り向いて進言したが、后は微笑しながら白い腕をゆったり伸ばし、小さな菓子を一つ指先で摘みあげて口に入れてみせた。そうしながら足指を器用に動かし、高い踵に繊細な装飾が施された靴を床に落とす。
「お行儀の悪い」
 軽く非難しながらチャーガはそれらを拾い、長椅子の足元にある赤い絹張りの靴箱に揃えて収めた。后はその様子を横目で見下ろしながら、素足の甲を撫でるドレスのとろけるような感触を快く味わっている。
(女官には解らぬ)
 室内で一人になると、彼女はふと薄い孤独を覚えた。
(あの子が嫌いだ、というのではなく―)
 何と言えばよいかと少し考え、怖いのだ、と思い当たった。そうだ、子を持つことは恐ろしい。いざそうなるまで、想像だにしていなかった事実だった。
 このままでは表に留まっておられなくなってしまう、と彼女は息子を避けるようになった。『母親』という病を抱えて、戦地になど赴くべきではない。一介の戦士であれば、せいぜい足手纏いになって自滅するほどの事であるから、大局に影響は及ぼさないだろう。だが彼女は王后であった。王などと担当区域を分割して、軍の半分を指揮する事もある。たとえば敵が息子と同じ黒瞳の幼児であろうとも、わずかな躊躇も判断ミスも許されない。彼女のそれは、味方の全滅をも招きかねない。
 多くのサイヤ人と同様、彼女は戦うことを心から愛している。男たちの多くは肉弾戦を好み、彼女もまたサイヤ人である以上それを本能的に欲する部分はあったが、彼らを駒に思うまま戦場を支配する愉悦は、それをはるかに凌駕した。頭の中に描いたとおり展開してゆく戦場のさまは、彼女のなめらかな肌を戦慄のような快感で粟立たせる。
 后となり、後宮から出てこれを覚え初めたとき、生まれ落ちてからその時に至るまでを自分は覚醒しないまま生きてきたのだ、という事に彼女は気づいた。そのままそれを知らずにいれば、自分は生きることのないまま死んでゆくところであったのだと。
(だが脆いものよ、女の地位など―)
 后とは、王と並び立つ者である。であるからこそ単なる妃とは違い、公人として表舞台に出ることが許されるのだ。その処遇に見合う力を失えば、引き戻され、再び後宮に押し込められる可能性を孕んでいる。そうなることはもう、彼女にとっては死ぬ事と何ら変わらない。
 ベジータは、間も無く本格的に実戦場に出てくるだろう。これまでにも非公式にだが父王に連れられ、小規模なものに参加したことはあったようだ。既にバイオ兵士(一般にはサイバイマンと呼ばれる)の強化型のものなども、彼の相手を務めることは難しくなっていると聞く。
『まさしく天才、あれこそまさしく天才ぞ』
 彼女は暗澹たる思いで、息子を褒めちぎる王を眺めていた。成長を喜ばぬ訳ではないが、これからは同じ戦場に居合わせることも多くなるだろう。そうなれば、これまでのように接触を避けることは難しくなる。既にそれほど戦士として一本立ちしているのなら、指揮官として活躍するのもそれほど遠い話ではないかもしれない。そうなるとますます顔を合わせる機会が増える。彼女には、それが煩わしかった。
「いや、怖いのだ」
 自分はあれに対する思い入れが強すぎるのかもしれない、と思う。だがそれは致し方のないところなのだ。我が子であるという以上に、彼女を后の位に押し上げたのは他ならぬベジータだったのだから。彼という優れた後継を王に捧げた功績は、長く空位の続いた王后を出現させるほどに輝かしいものであった。彼女は息子によって本当の生き場を与えられ、真の人生を拓かれたと言えるのである。


 遠い騒ぎの気配に目を開くと、ちょうどチャーガが入室してくるところだった。
「お寝み中に申し訳ございません」
 と古株は扉を閉めると、常より少々畏まった様子で跪いた。
「・・・何です、あれは」
 一室隔てた控えの間辺りであろうか、女たちの声がする。お鎮まりくださいませ、と騒ぐ複数の声に混ざって、どうか、どうか、と絶叫する若い女の声が甲高く響いてきた。
「ナラス様でございます。王后様に会わせて頂きたい、と衛兵を振り切ってここまで飛び込んでこられたのです」
「ナラス?」
「ターブル王子の御生母君にござりまする」
 承知している、と二度軽く頷いて、彼女はけだるく体を起こした。
「それで?何用あってわたくしに会いたいと?」
 薬指の爪先でそっと目頭を掻き、すっかり冷めた茶に手を伸ばす。新しいものを、とチャーガが止めたが、喉に水分を通したいだけだったので、構わず口をつけた。
「それが酷く興奮しておられて、仰られる事が要領を得ないのでございます。ただ王子の御名を何度も口にしておられまして―」
「王子?」
「はあ、ターブル様の」
 はて、と彼女は首をかしげた。ターブルなら、このたび三歳を迎えて後宮から表に居を移したばかりだが、その生母に押しかけて来られることについては何の心当たりも無かった。
「とにかく、会いましょう。あのように騒がしゅうされたのでは、どのみち昼寝などしておられぬよ」
「ではお仕度を。係を参らせまする」
 退出するチャーガを見送り、彼女は何気なく髪に手をやった。形は崩れていないようだが、結い上げが少々緩んでいる。普通は横になる前に解いてしまうが、今日は彼女がさっさと女官を追い出してしまった。
 自分で髪飾りを取り払い、心地良く頭皮に指など通していると、急に騒ぎが止んだ。彼女の意が伝えられたらしい。それから四人の女官が化粧道具を手に恭しく入室してきて、彼女の前に鏡を設(しつら)え、仕度に取り掛かった。


「御機嫌麗しゅう」
 応接室の扉が開くと、若い妃が床に跪いて彼女を迎えた。実のところ麗しゅうはない、と黙っていると、自分の頓珍漢な挨拶に気付いたのか、
「御休息中に、申し訳ございません」
 と女は消え入りそうな声で続ける。もとより骨細で背丈の小さな女であったが、常よりもっと小さく見える気がした。
「どうぞ、お楽に」
 それにしてもこんな子供みたいな女の何が良いのだろう、と王の趣味の広さに内心首を傾げつつ椅子に戻るよう声を掛けたが、妃は小刻みに頭(かぶり)を振るばかりで、彼女が席に着くまで顔も上げようとしなかった。若草色のドレスの、首から腕へと弧を描く襞の隙間から肩がこぼれて、若々しい後れ毛を乗せて小さく震えている。
「ご用向きは何でしょう」
 彼女が訊ね、
「後生でございます、お人払いを」
 とやっと上げた顔を見て、驚いた。確か先日茶会で二言三言交わしたが、その時にはぴちぴちと輝いていたはずの肌が酷く青ざめて濁り、やつれて見える。彼女が、侍していた三人の女官を室外に遠ざけると、
「陛下、お助けください。あの子が、ターブルが・・」
 悲壮な様子で眉根を寄せたまま、女はいざり寄って来て彼女の膝にすがりついた。
「ターブルが?どうしました」
「どうしましょう、あの子、惑星送りにされてしまいます」
「星送りに?」
 最初、この妃は何か別の話を聞き違えて早とちりでもしているに違いあるまい、と思った。あるいは他の妃などが意地悪に吹き込んだことを真に受けたか―
「ほほ、一体誰がそんな事を」
「王陛下がそう仰られたのでございます。昨夜わたくしの部屋までお越しあそばされて、『あれは他の星へやる』と」
「ええ?」
「どうかお助けくださいませ。そんな事になったら、わたくしもう恥ずかしくて生きておられません。一族にも顔向けできない」
 わっと膝に泣き崩れる女を見下ろしながら、彼女は首をかしげる。
(あの人は何をまた妙な事を・・・)
 誕生直後の検査で、その(潜在的)戦闘能力が一定域に達していないと判断された赤ん坊は、各々のレベルに即した他惑星に送り込まれることになる。しかしターブルの戦闘力がそこまで劣っているとは聞いていないし、第一あれは既に赤ん坊とは言えない。王家からそうした子が外部に送り出されることも、まずあり得なかった。万一生まれたにせよ、死産を装って闇に葬られるはずだ。王家の血は、崇高なものである。現王はそれを信仰にまで高めた。今それが穢されるような事は何があっても避けなばならない。
「ナラス様、順を追って詳しくお話し下さいな。ターブルは優れた素質を持った子ではありませんか。王は一体なぜそんな事を言い出されたのです?」
 薄い背に掌を這わせ、彼女は優しく声を作りながら訊いた。他人に話して堰が切れたのか、妃は声を放って泣きじゃくっている。
「わかりません、わたくしには何も、何もお話し下さらないのでございます。わたくしがどんなにお願いしても、『あれはここにふさわしくないのだ』とだけ仰せられて」



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