樹海(4)

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「どうしたのだ」
 よく響く低い声に、想いの淵からはっと醒めた。
「なんという顔をしておる」
 気付くと、竦(すく)むようにして立ち止まっていた。その彼の顔を、兄が怪訝そうな表情で覗き込んでいる。
「―いえ」
 と彼が曖昧に微笑むと、兄は眉を開き、
「船に着いたらまず眠るのだ。完全に睡眠不足よ、そなたは」
 と再び彼に背を向けて先を歩き始めた。
(大丈夫だ、兄上はそんな方ではない。私があれをどれほど大切にしているか御存知なのだから)
 彼は懸命に、己に向かってそう言い聞かせた。もしも彼がその外見通りに明るく軽やかな人間であれば、それで雲は晴れたかも知れぬ。
(・・・もしも渡せと命ぜられたら)
 一体、どうすれば良いのか。
 いや、どうするもこうするもない、王にそうせよと命じられたら従う他はないのだ。だがそうなったとき、自分は耐えられるだろうか。
(・・無理だ)
 己がこれほど嫉妬深い男だとは知らなかった。こうして考えているだけで、脳が沸騰してくる。現実にそんな事態に直面すれば、彼は王に渡す前に妻を殺してしまうかもしれない。
 それなのに、頭の片隅でこうも考えている。
 妻を差し出し、彼女が太子を産みでもすれば、自分はどれほどの見返りを得るだろう。
(あさましい!)
 彼は躍起になってその考えを打ち消そうとした。彼女を手放すことなど出来はしない。それに、兄が自分のこんな卑しさを見抜かぬはずがあろうか。兄に軽蔑されるくらいならば、それこそ死んだ方がましだ。
(いや、しかし)
 それほど大事なものを余に差し出すか。忠節忘れまいぞ。
 兄の悲願を叶えることになるかもしれないのだ。蔑まれるどころか、どれほどの信頼と感謝を勝ち得るか。それは彼が彼女を深く想っていればいるだけ、王がそのことを知っていればいるだけ、一層大きいはずだ。
 だが、だからと言って―
「降りそうだな」
 と王が空を見上げた。彼は反射的にそれを追って顔を上げる。ぎくしゃくと首が軋み、彼は自分の身体が固まっていたことに気付いた。迷いの潮に晒され、肉体までが急速に錆びかかっている。
 考えるな。やめるのだ。
 こめかみを伝う脂汗を感じながら、彼は己に強く命じた。だが重くのしかかる空を見上げ、彼の心は立ち竦み、動けなかった。
 暗澹たる思いで目を戻したとき、無防備な背が視界に入った。彼はぼんやりと、それに両の掌を翳した。兄の背を覆う緋布の襞が、ひどく遠い景色に見える。
 何をしているのだろう、私は。
 刹那、稲妻のように理性が戻った。だがもう、間に合わなかった。
「兄上!」
 彼は己の手の中から光弾が放たれるのを見ながら、声を限りに叫んだ。その悲鳴のような叫びをどう聞いただろう、十歩ほど先を歩いていた兄が振り返った。その顔に最初は驚きが、それからあの冷ややかな薄暗さが広がるのを、彼は見た。

 
「何故だ」 
 凍りついた曇天の下、地に倒れ伏した弟を見下ろし、王が重い口を開いた。
 近侍は、すべて死んだ。身体を張って主人を止めなかったことで―といってあれでは反応する間など無かったろうが―王の烈しい怒りを買ったのだ、全員消し飛ばされて跡形も無かった。
「そなたも、同じか」
 王位が欲しかったのか。暗い瞳で見下ろす兄の言葉に、彼は懸命に首を横に振った。振った、つもりであったが動かせず、かわりに喉の奥から妙な呻きが漏れた。一発受けただけだが、心臓を撃ち抜かれている。あの一瞬で、さすがは、と彼はこんな時なのに兄の腕とブレの無さに痺れるような感動を覚えた。
 何故なのでしょう、兄上。
 どうしてこんなことになってしまったのでしょう。兄上、なぜあなたを失望させるような事をしでかしてしまったのでしょうか。私は、あなたに命も捧げるつもりでいたのに―
「そうか、なるほど」
 いいえ、兄上。
 私は本当に、あなたに成り代わりたいなどとはこれっぽちも考えた事はないのです。あなたを攻撃するつもりなど無かった。
 けれど兄上、こうなってみて思うのです。
 あなたに憧れ、あなたを深く慕いながら、わたしはどこかであなたを同じだけ憎んでいたのかもしれない。私は遂に、私を縛るものから己を解放してやることが出来なかったのかもしれません。父という枷から。生まれという枷から。
「そなたにそのような覇気があったとはな。さすがは余の育てし弟、頼もしい限りだ」
 と王が笑った。心の底からの笑みにも、虚ろなそれにも映った。けれどもしも兄が心からそう感じているのだとしたら、ただの謀反人のまま死にたいと彼は思った。
「だが弟よ」
 残念だが、これで別れだ。しとしとと降り始めた小雨の中、兄がゆっくりと背を向けた。らしからぬ、緩慢な動作だった。
 さようなら。私の―
「兄上・・」
 最後の一息が、ようやく言葉らしきものを押し出す。だが紅の孤影はすぐに冷たい帳に滲み、樹海の闇へと消えて行った。


2009.4.12



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