樹海(3)

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「眠っておるか」
 一汗流した後、近侍に身体を拭かせながら兄は彼に訊ねた。 
「は」
「少々動きが鈍いように感じた。寝不足なのではないか」
「いえ、兄・・陛下の動きについてゆくのは容易なことではありませぬ。陛下が一層腕を上げられたということなのでは」
「世辞はいらぬ」
「世辞などでは」
「そなたはあれだけ事務方をこなしているのだ、寝が足りているという方が不思議よ。少しは下に任せたらどうだ」
「お心遣い勿体無く存じまする。ですが私はどうにもこう、他人に任せるのがもどかしい性質でして」
「出来るからな、そなたは。他人を見れば頼りなく映るだろうが」
「そのような」
「だがそなたでなくとも出来ることならば、少しは信を置いて任せてやるがよい」
「はあ・・」
「眠れ。朦朧とした頭で判断を誤るような事があってはならぬ。そなたの代わりはおらぬのだからな」
「・・・はい」
 何気なく加えられた一言に面映ゆく顔を伏せながら、なんと罪深い人なのだろうと彼は思った。本人にそういう気があるのかは判らない。だがたださえ何やら撒き散らして歩いているような人なのに、こんな調子では女達が蕩け切ってしまうのも無理はない。
「相変わらずよ」
 と笑いを滲ませた声に、彼は顔を上げた。
「え?」
「そなたは時々、そうして生娘のように顔を赤らめる」
「きむすめ」
「昔からだな。大の男になっても変わらぬ」
「・・申し訳ござりませぬ。気味悪う思し召されましょうな」
「いいや。面白い」
「お、面白がって仰られたのか」
「ふ、ははははは」
 むきになった彼を見て、王が声を上げて笑った。嬲られているような気もするが、久々に言葉数多く、張りの戻った表情を見て満足を覚える。彼自身、体を動かして気分が少々昂揚してもいた。
「時にそなた、子はまだか」
 発着場へ向かうべく再び進み始めたとき、王が訊ねた。
「は、側女の産んだ女児がございますが」
「そうではないわ。妃にだ」
「はあ、まだ」
「孕まぬか」
「孕みませぬ」
「励めよ。きっと優れた子が得られよう」
「は、恐れ入りまする」
(いやいや、なかなかあなたのようには)
 神妙な顔つきで応じながら、彼は内心可笑しかった。だがせっつかれるのは一度目ではないし、まんざら社交辞令でもないのかもしれない。
(では、やはり)
 王は子沢山であるが、ここのところよく 『後継にふさわしい子がいない』 と彼にこっそりこぼしている。彼が優れた子を儲ければ、それを譲るよう持ちかける心積もりなのかもしれない。或いは、自分の子と交換したいと。
(だとすれば何と光栄なことだ)
 まだ懐妊の徴すら見ないというのに、彼は密かにそんな想像をして胸をどきつかせる。彼自身は王位に興味など無いが―というより器ではないと思うのだ―、我が血の栄達が嬉しくないはずはない。何より、我が子があの兄の子になるのだ。それに妻もきっと喜ぶ。
(―待て)
 そこまで考え、ある思いが脳裏を過ぎった。ひょとして兄は、遠回しに彼の妻を要求しているということはあるまいか。
 孕まぬか。所詮そなたには過ぎたる女なのよ。余に差し出すが良い―
(違う)
 兄はそんな男ではない。第一、既に多くの妻妾を後宮に蓄えているではないか。何をすき好んで他人の妻を欲しがろう。
(そんなはずは・・)
 だがそう言い切れないものを感じもするのは、妻の出自がそもそも彼に吊り合っていないという事実のせいだった。
 彼女がまだ子供だった頃に、彼が見初めた。息を飲むほど肌が白くて、素直な漆黒の髪が人の目を引く、瞳に不思議な光を湛えた女児であった。面倒なことに相当な家格の貴族の娘であり、一介の王子にすぎない彼が本人の承諾だけで我が物とする訳にはいかなかった。彼は彼女の父の慇懃無礼に何十回も耐え抜き、やっとの思いで許婚の地位を得たのである。
『そういう趣味なのか』
 と兄は眉を顰めていた。年齢的にはそれほどおかしな組み合わせではないのだが、兄自身が熟した女を好む年頃だったので、そう感じたのかもしれない。だがもう、彼女は子供ではなかった。あの頃の兄がいれば、十中八九その歯牙に掛かっていただろう。いや、そもそも彼女の父は娘を王太子(当時の兄だ)に差し出すつもりであったらしく、何度も彼に対して遠回しに身分違いを匂わせたものだ。一度は見放され、父の事がなくとも、兄に拾われていなければ戦士としてまともに成長したかどうかも分からない、そんな男に添わせるべき娘ではないのだと。
(嫌だ)
 子の優劣は、九割九分血統によって決まる。彼女ならば、兄の望みを叶えられるかもしれない。実際、兄はそう考えているかもしれない。であれば、黙って差し出すのが臣たる者の務めだろう。だが―
(それは困る)
 それだけは困る。
 他のものなら喜んで差し出そう。我が子だろうと、財産だろうと。命だろうと。
 だがたとえ兄であろうと、妻だけは嫌だ。絶対に嫌だ。



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