二十八度目の満月 (4)

 1  2  3  Gallery  Novels Menu  Back

 頭を冷やそうと思ったのに。彼女は男の部屋の前で溜息をついた。
 心配なのよ。
 だが無人の部屋を訪れたところで、心配事が解消されるわけでもあるまい。自分への言い訳の不味さに舌打ちしたい気分になりながら、彼女は開閉ボタンを押した。
 月影が、窓の形に切り取られ、床の上に伸びていた。その強い光が、部屋の中の黒をより濃厚にしている。彼女はその黒の中に潜むものに気付かないまま、窓から差し込む光に近づいた。
 何かが動く気配に、彼女はびくっとして足を止めた。見ると、窓際の影の中に、彼女が二日掛かりでその姿を探した男が蹲っている。彼女は驚いて大きな声を出しそうになったが、何とか飲み込んだ。
「び・・びっくりした・・帰ってたの」
 男は、バスローブに身を包み、片膝を立て、そこに腕を預けた姿勢で床に座り込んでいた。視線は部屋の壁に定め、彼女の方を見ようとはしない。
「何やってんの、そんなとこに座り込んで」
 何となく近づき難い気がして、彼女は彼から少し離れた所に立ったまま声を掛けた。聞こえていない筈はないが、男は何の反応も示さなかった。彼女は少しいらいらした。この男が返事を返さないなど珍しいことではないが、存在を無視されるということには彼女は慣れていなかった。
「ちょっと、何とか言いなさいよ」
 男に向かって一歩を踏み出そうとしたとき、呻るような低い声が響いた。
「寄るな」
 命令ではない。警告だった。彼女はそれを感じて竦みそうになったが、辛うじて態度には出さないで済んだ。だがさすがに彼に近づくことは諦めた。御機嫌が悪いらしい。
「二十日も留守にして、挨拶がそれなの?」
 溜息と共にそう言うと、彼女は男が溶け込む影の中に移動し、彼の正面にしゃがみ込んだ。立てた膝のせいで、彼の黒いローブの裾が少し割れ、深い闇が覗いている。彼女はそこから目をそらし、男の顔に目をやり、驚いた。
 窶れている。暗がりでもそれが見て取れた。元々鋭い顔は、肉が削げて余計に鋭くなっており、目の下は黒ずんで、その尋常ではない疲労を感じさせた。碌に眠っていないのは明らかだった。
「―どうしたの、あんた」
 こんな様子を目にするのは初めてであった。どんな重傷を負っていようと、眠らずにトレーニングしようと、この男の目は常に炯炯と光り、その覇気は周囲を威圧した。サイヤ人は疲れることがないのだと家人は皆本気で信じていた。その男が初めて見せた倦怠は、彼女に強い衝撃を与えた。彼女は、警告を忘れた。
 四つ這いになって、いざるように男に近づく。彼女がその手で男の頬に触れると、彼はぴくりと体を痙攣させた。
「ね、ホントにどうしたの。変よ、あんた」
 顔を覗き込むと、男がゆっくり巡らせた視線が彼女のそれと絡んだ。
 あんた―
 彼女は彼の瞳の中に、ついにその色を見出した。何度も、あ、と思った途端瞼が下ろされ、確認出来なかった色―。
 では、この男のこの異変は、自分が引き起こしたものだというのだろうか。この強靭な男をこんなやつれた姿にし、その顔に深く疲労を刻んだのは、自分だと―
 彼女はゆっくりと男に顔を近づけ、目を閉じて彼の唇に自身のそれでそっと触れた。この鋼のような身体にも、やっぱりこんな柔らかい部分があるのだ。彼女は、喉のずっと奥の方が締め付けられるのを感じる。この男の心の、無防備な部分に触れているような気がした。
 男は身じろぎもせず、じっとしていた。息さえ止まっているように思えた。唇を離し、目を開けると、自分を見据える彼の瞳にぶつかる。逸らさず、受け止めた。みつめあったまま、永遠とも思える数秒が流れ、やがて男が口を開く。
「後悔するぞ」
 彼女は、ふ、と微笑んだ。それが掠れていたからではない。遠くで、理性の声がした。が―
「わかってるわよ」
 それは、封印された。
 彼らは再び唇を重ねた。一度軽く触れあい、そして深く求め合った。貪るように。互いを喰らうが如く。
 箍が外れたようだった。口で深く繋がったまま、男は彼女のローブを引き剥がした。濃い青の布地から、白い身体が零れ出る。彼女も、もどかしく手探りしながら男のローブの紐を解いた。彼らの素肌が出会った。寄せると、当たり前のようにぴたりと馴染んだ。全身の皮膚で交わす切羽詰ったキスに、彼女の頭の中は真っ白になる。身体から、力が抜けた。唇を離すと、その彼女の腰を持ち上げ、男はそこに自らを埋め込む。いきなりだったが、彼女は男をするりと飲み込んだ。彼は、確かめるようにゆっくりと、彼女を自身の腰の上に落とした。

 ぐったりと凭れ掛かる彼女の身体を抱き、男はその乳房に唇を押し当てる。やわらかな肉に軽く歯を立てると、まだ彼を飲み込んだままの彼女の内側がぴくぴくと反応した。彼らは互いの唇をついばみ、頬を触れ合わせ、耳や首筋、肩や腕にキスを落とし、甘噛みした。
 四肢の隅々まで深く満たされながら、男の肩に頭を預け、彼女はぼんやり考える。
 肉体の片割れというものがあるのだとすれば、自分にとってのそれは、きっとこの男なのだ。
 まだ、早い。スイッチを押そうとする彼女を止めようと響いた自身の理性の声を、彼女はなんだか遠い昔に耳にしたもののように感じた。この男とどうにかなるのはいいが、もっと自分の存在を刻み付けてからでなくては。そう感じていた自分を、別人を眺めるように思い返した。
 彼にとっての片割れが自分であればいい。自分の感じるこの深い悦びを、この男もまた感じていれば嬉しい。彼女は男の首を抱き、まだ汗の引かない自分の身体を押し付ける。乳房に熱い息が掛かり、彼女は彼が自分の中で力を取り戻すのを感じた。
 元気ね。彼女はその蘇生の早さに呆れる。あの窶れぶりは錯覚だったのかしら。
 男が、その重みを掛けて彼女を床に倒した。彼女は、温度調節の行き届いたそれを背中に感じながら、冷たければ気持ち良かっただろうなと思った。
 一言も、交わさなかった。睦言さえも口にしない。言葉は、失った。肉体だけが残されていた。だが今、他には何も必要なかった。

 翌朝、彼女がダイニングに下りると、新しい重力室で早朝のトレーニングを終えた男が姿を現した。いつものように彼女はおはようと声を掛け、いつものように男はそれを無視した。朝食を摂る彼の前に、コーヒーとサラダを手に腰を下ろし、ホントに凄い食欲ねと彼女が呟くのも常の通りなら、男がそれにふんと鼻を鳴らすのも毎朝の光景だった。ただ、食事を終えた彼女が、側を通り過ぎざま彼の耳元に囁きかけた言葉に、彼が眉根を寄せたり鼻を鳴らしたりするのではなく、一瞬食事の手を止め、少し顔を赤らめたことだけが昨日までの日常とは違っていた。ウーロンがそれを目にして、ピクルスを片手に首をかしげている。
 今日はあんたが来なさいよね。

 彼らは、始まった。


2005.5.28



 1  2  3  Gallery  Novels Menu  Back