微睡 (4)

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 左腕に、柔らかいものが触れている。
 徐々に浮上し始めた意識が、彼にそれを教えた。なんだか体中、指の先までが温かいような気がした。ふわりと、心地良い。覚醒してしまうのが惜しかった。だが無情にも彼の瞼はゆっくりと開き、網膜に光を誘い入れる。
 降り出したか。
 細やかな雨音が耳に届き、顔を上げようとした。と、左肩に何かが擦れ、はっと目を遣る。そうして何かの正体を目にし、彼はあっけに取られた。
 ―何をやってる?
 彼の左腕に自身の右腕を密着させ、左肩に頭を預けて、女が眠っている。
 一体、何が起こったのか。いやそんな事よりも、なぜ自分はこの状況で目を覚まさなかったのだろう。自分の肩に軽く乗った小さな顔を眺めながら、覚醒し切らない頭で懸命に考える。そうするうちに自分がぼんやり口を開いていた事に気付き、彼は苦り切ってそれを引き結んだ。
 この女は―
 彼を恐れない。怯むことはあっても、決して畏怖することが無いのだ。対等な人間のつもりでいる。
 笑わせる。
 下等な地球人の癖に。彼はそして昔を思い出し、唇を歪めて少し笑う。それはかつて所属した軍において何度と無く自身に投げつけられた、侮蔑の言葉だった。
 下等な猿。野蛮なサイヤ人。
 上等だ。その下等で野蛮な猿に、いずれは殺されるんだ。その時のあんたらの顔が見物だぜ。
 常に最前線で牙を磨きながら、そう信じて疑ったことが無かった。彼にとっては、自分以外の全ての生き物は潜在的に下等なのだった。そういう関係しか知らない。物心ついてから、ずっと上下関係の中で生きてきた。
 この女は、そんな世界を知らないのだろう。この星で指折りの財閥の総帥の娘として生まれ、生ぬるい環境で周囲にちやほやと持ち上げられて育ち、いずれは父に成り代わってトップの椅子に座ることが約束されている。だからこそ、彼の怖さが解らないのだ。或いは、余程の馬鹿なのか。
 馬鹿ではない。
 と知っている。そしてぬるいだけの女でもない。もしそうであれば、それまでどんなに馴れ馴れしく接していたにせよ、彼の恫喝に遭った時点で、震え上がってまともに話すことも出来なくなってしまっただろう。だが、女は一歩も引かなかった。殺してみろと彼を挑発しさえした。それも一度ではなかった。そして何よりも、この女を初めて見た場所はナメック星だったのだ。限られた環境の中で大事にされているだけの女なら、あんな場所で出会うことなどなかっただろう。
 なら、何故だ。
 なぜこんなに近くにいる?なぜこんなにも無防備でいられる?彼は少し呆れながら、すぐ傍にある女の顔を覗き込んだ。小さな口を薄く開けて、ぐっすり眠っている。しげしげとその顔色を見遣って、彼は彼女が酷く疲れていたらしいということに初めて気付いた。
 だから何だと言うんだ。
 こんな馴れ馴れしい真似をして、只で済むと思っているのか。右手を女に伸ばしながら、彼は自身が何度と無く繰り返してきた事を、女に当て嵌めて想像する。
 首を絞めたら―
 どんな顔で命乞いするだろう。握り潰せばどんな音がするだろう。血は甘いだろうか。最後に、誰の名を呼ぶだろう―
「ベジータ・・」
 女の口から折り良く漏れ出た言葉に、彼は仰天し、凍りついた。
 寝言か―
 驚かしやがる。そして、今女の夢の中に自分が登場しているらしい事に―怒鳴りあってでもいるのだろう―すっかり毒気を抜かれ、伸ばした右手のやり場に困ってそれをのろのろ引っ込めた。本当に想像通りにするつもりなど無かったが、その想像と彼女の空気に落差があり過ぎて、ひどくばつが悪い。
 女が、怒っているような声で、んん、と言葉にならない寝言を漏らした。彼に喚き散らしてでもいるのか。彼は、女が夢でまで自分を怒鳴りつけているらしいのにうんざりしながら、それでもふん、と鼻を鳴らして少し笑った。
 今日だけだ。
 彼は顔を上げ、再び襲ってきた眠気に素直に従う。
「今日だけだ」
 小さく呟くと、女をそのままに、再び瞼を下ろした。目覚めれば、また苦しい日常が戻る。
 しばし休戦といこう。
 再びふわりと身体を覆う心地良さに身を委ねる。先程よりも少し厚みを増した雨の帳の中で、彼は静かに眠りに落ちて行った。

 2006.2.6


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