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 ベジータが生きている頃、彼は当然のように二人が(正式な)婚姻関係にあるのだと思っていた―だって子供がいるのだから。まだ生きていた周囲の大人たちは、彼がそのことに触れると曖昧に笑って言葉を濁してしまったので、彼が真実を知ったのは随分と後になってからだった。
『ベジータと?冗談でしょ』
 一緒に暮らし始めた頃、何かの拍子にそんな話になったのだが、ブルマは笑い出した。
『あいつがケッコンとか、そんな柄だと思う?』
『じゃあ、どうしてトランクス君が生まれたんですか』
 無邪気に質問した彼に、彼女はうっと言葉を詰まらせていた。頭の良い人なのに、どうして話がそちらに転がると考えなかったのだろう。あの時の彼女の顔を思い出すと、薄い羞恥と共に今でもおかしさが込み上げてくる。
『好きだったんでしょう?ベジータさんのこと』
 また別の機会だったか、そう訊ねた事もあった。彼女が彼から目を逸らして長い間沈黙していたので、もうこの話を続けたくないのだろうと返事を諦めかけたとき、
『悟飯君』
 と彼女が口を開いた。そして彼の方に視線を戻して、こう言った。
『訳がわるようになったら、思い出してみて。あたしたちは、お互い存分に奪い合い、与え合ったわ。そして少なくともあたしは、何一つ悔いてはいないのよ』
 その言葉に情事の気配を読み取ることのできる今なら、解る気がするのだ。彼らの関係が、短くとも、いかに濃度の高いものであったのかが。だからかれらの事を想う時、彼は複雑な感情に捕われる。まだ言葉や形でしか物事をとらえることのできない自分のような若造には、決して立ち入る事のできない世界を見せつけられている気がして。己の未熟さが曝け出される気がして。
 そのとき、草の上に寝転がっていた彼の目の前を、小さな光が横切った。身を起こして確かめると、蛍が飛んでいる。手を伸ばすと、点滅しながら指先を掠め、彼岸の草間に姿を消した。途端、まるでそれが合図であったかのように、そこここから一斉に蛍が舞い上がる。
「―――」
 異様で幻想的な光景に、彼は言葉を失った。普通、こんな月の明るい夜に蛍が群舞することはない。珍しい現象に偶然行き当たったのか。あるいは破壊の及んでいないように思われるこの山でも、何かが少しずつ変わってきているのかもしれない。
「・・ただいま」
 だが彼は、今はこの歓迎に身を委ねることにした。蛍達は彼の周囲を遠く近く飛び回り、点滅を繰り返している。月の光の下で、それはかれら自身が思うよりきっと弱々しいだろう。それでもその強い光に負けまいと繰り広げられる命の乱舞は、どんな過酷な運命に見舞われようとも今日を懸命に生きる、人々の姿に似ていた。
 悟飯ちゃんはよくやってるだよ。おっかあの誇りだ。
 全部自分のせいだなんて思うな。自分を責めたって、なんにも良くなりゃしねえんだぞ。
 そんな声が聞こえた気がした。彼の疲弊した心に、それは慈雨のように染み入ってくる。蛍は人の魂とも言う。であれば、命を繋ごうと舞い踊るあの光の中に、父や母がいるのかもしれない。そう思うと、小さな光が愛おしくて懐かしくて、胸が詰まった。
 気付くと、泣いていた。
「おとうさん」
 おかあさん―
 奪われた子供時代を取り戻すように、彼は父母の懐に戻って泣いた。声を上げて哭いていた。



 悟飯の気持ちには、実は薄々気づいていた。彼がC.Cを離れたのも、多分それが理由の半分だ。お年頃だもんね、と彼女はうっすら笑った。女として悪い気はしない。だが何より、彼の成長が嬉しかった。
 もし求愛されたら受け入れてもいい、と思ったりもしていた。悟飯は魅力的な青年に育ちつつある。そういう少年を大人にするという役回りも悪くはないと思うのだ。だが彼は彼女の元から去って行った。彼ら三人の関係を変えたくはない、とそういうことなのだろう。
「だったら、さっさと恋人作んのよ」
 いつ死んじゃうかわかんないんだから、と煙を吐き出して彼女は呟いた。直後、コーヒーできたよ、とトランクスが呼びに出てきて、
「だめだよ、こんなにくらくなってから外に出たりしたら危ないじゃないか」
 と彼女を叱った。うふん、と彼女が笑い、煙草を咥えたままポケットから愛用の小型銃を取り出して見せると、おてんばな母親を持つと苦労するよと彼は肩を竦めた。
「はやく入ろうよ、コーヒーが冷めちゃう」
 息子に急かされ、はいはい、と胸ポケットからアッシュトレイを取り出した彼女の目の端を、一筋の光がよぎった。
「あ、ホタルだ」
 初めて見た、あれホタルだよね、とトランクスが指さして大きな声を出す。目で追いながら、こんなところにどうしてまた、と彼女は首をかしげた。近くに蛍が棲むような川などありはしない。車や荷物にでも付いて運ばれてきたのだろうか。
「なんだか気の毒だわね」
 と彼女が呟くと、トランクスが彼女を見上げて不思議そうに訊ねた。
「どうして?」
 どんなに点滅しようとも、得るべき配偶はここにはいない。戻るべき水辺もない。たった一人で舞い光り、たぶん朝にはその生涯を終えるだろう。
「入りましょ、コーヒーが冷めるわ」
 答えず、彼女は灰皿に火を押し付けた。息子の背を押して促しながら、一度だけ振り返る。小さな光は大きく弧を描きながら上昇し、月に溶けて点になり、やがて見えなくなった。


2012.9.11
 



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