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 悟飯さんはもう夕飯済ませたかな、と空になった自分の皿を見下ろしてトランクスが呟いた。
「メニューは何かしらね。きっとごちそうだわよ」
 昼前に悟飯が出て行ってから若干寂しそうな様子のトランクスに、彼女は明るい口調でそう話し掛けた。手に入る食材の多くが闇から流れてくる高価なものだったし、量も充分とは言えないのだが、実り豊かなパオズ山なら、サイヤンハーフの胃袋だって一人ふたり分くらい満たせるだろう。
「悟飯さん、料理がじょうずだものね」
「あら、ママとは違ってって言いたいの?」
「ち、ちがうよ」
 おいしかったよ、特にこのミネストローネとか、と息子は慌てて言った。わざと白けたような表情を作って彼を流し見ていた彼女は、その可愛らしい様子に吹き出してしまう。
「ごちそうさま。コーヒー作ってくるね」
 ちょっと座面の高い椅子から滑り降り、トランクスは二人分の食器類をそそくさと片付け始めた。まだ料理らしい料理は作れないので(しかし彼の作る目玉焼きの美しさは既に彼女を超越している)、代わりに後片付けは原則彼の仕事だった。両親やベジータがここにいた頃のように大量の食器を使うということがないため、たっぷり三十人分のキャパシティを持つ食洗機は、もう何年も稼働させていない。
「まだ動くかしら」
 と彼女はなんとなくひとりごちた。どうだっていい。昨今では節電が当たり前になっているし(インフラが後からあとから破壊されて復旧が追いつかないからだ)、使える電力は可能な限り研究室の方に回したいので、動いたところで使うことなど無いのだから。
「一服してくるわ」
 踏み台に乗って皿を洗っているトランクスに声を掛けて地上に上がり、リビングを突っ切って窓から庭に出た。研究棟のいくつかは破壊されていたが、この母屋は今のところ奇跡的にほぼ無傷だった。だから、
(タイムマシンを作ってみよう)
 という計画にも、何とか着手出来たのだ。この居住スペースに設けられていた研究室の設備のほとんど全てを、地下に移す事ができたからだ。各研究棟にあったものほど本格的なものではないし性能面でも劣ってはいるが、かといってそこらで手に入るような代物ではない。本当に運が良かったと思う。
 にしても、とてつもない話ではある。彼女が挑もうとしているのは正真正銘、前人未到の領域なのだ。理論は、大筋だが拍子抜けするほどすんなりと立ち上げる事ができた。偉大な先人たちが―父を含めて―立ち向かっては玉砕してきた巨大な壁を、彼女はひょいと飛び越して見せたのだ。理屈では実現可能だ、というところまで漕ぎ着けた。だがそれはあくまで理屈での話だった。
『天才なんだろ?自分にできない事は無いって言ってたんじゃなかったのか』
 まだ挫けそうになってはいないが、越えるべき二つ目の壁のあまりの高さに、気持ちが萎える事がある。そんなとき決まって頭の中に響いてきて彼女の尻を叩くのは、ベジータが吐いていた嫌味な台詞の数々なのだった。
「忌々しいけど白状するわ。あんたはあたしを働かせる天才だわよ」
 昔も、今もね。星の瞬き始めた空を見上げ、彼女は彼がそこにいるかのように囁きかける。細く吐き出した煙がゆったり流れて即席の天の川が現れたが、見る間にほどけて霧散した。



 湯冷ましに、川辺を散歩した。
「いい匂い」
 と彼は胸いっぱい夜の空気を吸い込んだ。緑の凝った匂い。彼のふるさとの香り。初夏の新緑は月明りの下ですら艶めき、小川は白銀色に光りつつ、宝石みたいな飛沫をきらきら撒き散らしている。市街地では人造人間による破壊が進み、もう丸ごと廃墟と化してしまった街もあった。そういった場所では治安が乱れに乱れ、地も人も荒みきっている。なのにここは、一続きの地上とは思われぬほど全くの別世界だ。
 西の都も一部は襲撃を受けたが、今のところその一度きりで、それなりに秩序立った生活が営まれていた。そのうえ人々の多くが既に地下都市に移住しており、そこに新しい世界も開かれつつある。それでも、荒んだ下界に彼らを残して行く事が気掛かりではあったが―
 これで良かったんだ。僕はこれ以上あそこに留まるべきじゃない。
 今はまだいい。だが彼はもう子供とは呼べない年齢に達している。このまま想いが募ってゆけば、自分を抑えることのできなくなる日が来るかもしれない。彼女が実の母親より年上であるという事実も、ベジータに対して抱く後ろめたさに似た感情も、彼をいつまでも食い止めてはいられないかもしれない。彼は長年かけて育んできた三人の関係を、壊したくはなかった。かりそめの家族ではあっても、彼にとってはもう、自身を支える最後の絆だったから。
 だから彼は、内心じりじりしながらトランクスの成長を待っていたのだった。少なくとも母親だけは自力で守れるようになるまで―人造人間から、とまでは言わないが―彼が傍に居なければならなかったからだ。彼自身の思惑など無かったとしても、世界は今ブルマを失う訳にはいかない。
(忘れるんだ)
 大丈夫、僕は少し自分を持て余してるだけだ。ちょっと夢を見たかっただけさ。お父さんとお母さんの匂いのするこの場所に居れば、きっと忘れられる。
 自分にそう言い聞かせながらも、彼は遥か遠くを見据える女科学者の青い瞳を脳裏に描いているのだった。そこに宿る強い光が、彼女を降り積もる季節から遠ざけてきたのか。女性にとって決して良い環境にあるとは言えないのに、彼女は実年齢よりもずっと若く見える。貌だけではない、ごわついた作業着に包まれた、匂うように豊麗で伸びやかな身体も。
 ベジータさんは―
 あのひとをどう思っていたんだろうか。水面をぼんやり眺めながら、彼は草の上に腰を下ろした。まだ露など降りてはいなかったが、そこはひんやりと冷たかった。

 



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