What A Wonderful World(4)

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「母さん」
 棚に腰掛ける彼の母に、父に膝を貸す若い母が重なった。彼女は振り向かない。
「好きでしたか、父さんのこと」
 薄く笑う気配があった。細い肩が一瞬、微かに揺れる。
「懲りないわね、あんたも」
 母は小さな溜息のように呟いた。
「これで最後です。もう二度と聞きません」
 彼は静かに息を吸い込み、一度呼吸を止めて、再び問いかける。
「好きでしたか」
 母は、指に挟んだ煙草をガラスに押し付け、火を消した。何本もそうやって揉み消したのだろう、そこには幾つも黒い跡が残っている。棚の上には、複数の吸殻が一列に並べられていた。ゆっくり振り返ると、彼女はひたと彼に視線を定め、口を開く。逆光の中の表情からは何の感情も読み取れなかった。
「―嫌いじゃなかったんでしょうね、寝たんだから。しかも何度も」
 自分は今どんな顔をしているだろう。母の直接的な物言いには慣れているものの、父を知ってしまった今の彼を、その言葉は小さな電流のように打った。視線を泳がせ、狼狽を隠せない彼の様子に、母はわずかに相好を崩す。
「でもあんたが聞きたいのはそんなことじゃないんでしょう。だったら」
 腰の位置より少し高い棚の上から降り、尻に付いた埃を払って、吸殻を一本ずつ左の掌に乗せながら彼女は小さな声で言った。
「分からないわ」
 がらんと乾いた部屋に、その声はよく響いた。


「思い出せないの」
 憶えているのは、肌の匂い。その熱さ。硬い身体の、弾力のある歯触り。他の誰とも違う、その味。
 そんなものだけだ。心など、もう遠すぎる。
「でもね、泣いたのよ。あいつが死んだ日の夜は」
 体中に散る彼の痕跡を目にして、堰が切れた。一晩、泣き明かした。
 もう、戻ることはない。
 二度と自分を抱くことはない。
「もういいでしょ」
 何にでもはっきりした形を求めるのは、あんたの若さだわ。でもね、人ってそれほどきれいでも、単純でもないのよ。
 喪失の涙だった。何を失ったのかは未だに分からない。形にならない様々なものを形にならないままに抱き、彼女は生きてゆく。
  息子に歩み寄り、その頬を軽く叩く。大きくなったわね。彼を見上げて、囁いた。


「食事にしましょう」
 せっかく作ってくれたのに、冷めちゃうわ。そう言うと、彼女は彼の脇をすり抜けて部屋を出る。
 わからない。
 それは本当なのだろう。だが、自分が愛の最中(さなか)で生を受けた子である必要は、もう感じなかった。その名で呼べるものではなくとも、父と母の間には確かに温度のある何かがあったのだと、今は思える。
 こんなに細く、小さなひとだったのか。
 自分の脇をすり抜けてゆく母を見下ろし、彼は喉の奥が締め付けられるのを感じた。
 昔は見上げるように大きく、堂々と見えた、母の体。
 父の、血に染まった手が抱いた体。傷を負った父を抱きとった体。幼い日、彼が大好きだったやわらかな体。
 崩れたビルの谷間に陽が溶けてゆく。あれはもう、滅びの夜明けに繋がってはいない。
 無残な姿。それでも、この世は美しいと思った。残酷と混沌の中で尚、人は、人を想う。それは遥かに遠ざかろうとも、消えて無くなることはない。
「待ってよ、母さん」
 踵を返し、後を追う。明日からは、復興に向けて忙しい日々が始まるだろう。黄昏のひんやりとした風が吹き、機械油と煙草の匂いが―母の香りが―漂った。

 2005.9.18


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