What A Wonderful World(1)

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 眩しい。
 瞼を透かす光に眉を顰め、ベッドの上で伸びをする。薄く目を開くと、足元の壁の天井付近、不規則に走った亀裂が切り取る蒼が見えた。
 取り戻したのだ。
 物心ついてから初めて迎える、平和な世界の、平和な朝。陽光に起こされるなど何年ぶりだろう。長年地下シェルターで起居してきて、地上で眠った思い出など数えるほどしか無い。果たした事の大きさが、じんわりと沁みた。
「入るわよ」
 節約のために電源を落としてある扉を、力を込めて開き、彼の母親が滑り込んできた。発電所が復旧しておらず、電気は自家生産分で賄うしかない。
「ああ、起きてたのね」
「おはよう、母さん」
「朝食にしましょ。もうおなかペコペコだわ」
「―待っててくれたんですか」
 寝坊でしょ。眠る時も肌身離さぬ腕時計で ―レーダー等を兼ねた超小型コンピュータだ― 確認すると、通常の起床時刻を随分とオーバーしていた。
「そりゃ今日くらいは、ね」
 彼女は簡素な寝台に身を起こしたトランクスの頭に手を置いて微笑み、自身と同じ色の素直な髪を軽く撫でる。
「早く降りて来て頂戴よ」
 はにかんで少し俯いた彼を笑いながら促し、再び扉と壁の狭い隙間を潜って、彼女は廊下へ身を滑らせた。


 睫毛長いんだなあ。
 金色のオムレツから立ちのぼる湯気のむこう、化粧気の無い白い顔を、彼は新しい感慨をもって眺めた。過去で見た、若い母の顔を重ねてみる。皮膚に刻まれた年月も、彩りも違う。だがやはり、華やかだ。
「聞いてる?」
「え」
 我に返る彼を見て、は、と溜息をつき、彼女が苦笑する。
「ぼんやりしちゃって」
 ムリも無いけど。ほっとしてるんだわよね、ご苦労さま。小さくちぎったパンにジャムを乗せながら、母は彼を労った。
「いえ、まだ終わっていません」
 肝心な敵が残っている。出現まであと3年、待たねばならないが。
「わかってるわよ。なんとかいう細胞の化け物でしょ」
「セルです」
「ああそう、それよ。でもとりあえず世界は平和だわ」
 今朝を楽しみましょう。彼女はコーヒーの入ったマグカップを目の高さで捧げ持ち、軽く乾杯のポーズを取った。
「母さん―」
「―何?」
 彼女は真剣な様子の息子を見て小首をかしげる。大きな青い瞳が陽に透け、不思議な色に輝いた。
「お疲れ様でした」
 トランクスは頭を下げた。言葉に万感の思いを、込めた。
 彼を愛情深く育んだ。彼を支え、彼と共に戦ってきた。絶望的な状況のなか、決して自棄にならず、明るく、逞しかった。
 彼女の存在が、どれほど彼を救ってきたことだろう。師とも父とも慕った悟飯を失ってからは、彼にとってただ一人の仲間でもあった。この世界の脅威を取り除いたのが彼ならば、その彼を産み、育て、支えたのは、この母だったのだ。
「トランクス」
 のんびりと呼びかける声に、彼は顔を上げた。手を止めて柔らかく視線を投げる母の姿に、何故かどきりと胸が弾む。
「まだ終わってないんでしょ」
 そういう台詞は、あたしがこの世から退場する時まで取っといて。カップから一口含み、彼女は呟いた。
「それに、これからは復興の方で忙しくなるわ。まだまだ気を抜けないのよ」
 あたしって天才だからさ、代わりがいなくて大変な訳よ。つんと鼻を上に向けて嘯く彼女の言葉が、照れ隠しながらも冗談ではないのだということを、彼は知っている。それが自惚れではなく、自負であるということも。
「ええ、そうですね。それに―美人だし」
 身近に比較の対象となる女性がほとんどいなかったせいなのだろう、いつも機械油の匂いのする作業着に身を包み、きつい煙草を咥えている母の美しさに、彼はずっと気付かないで来た。
「―どうしたの、あんた」
 彼女はぽかんと口を開け、カップを置いた。自分の言葉がちょっと恥ずかしくなり、彼は目を逸らす。熱でもあるの?と覗き込む母の言葉に、薄く赤面してくるのが自分でわかった。
 いやだなあ。俺なんでこんなに顔に出るんだろう。
「あ、あの」
「わかったわ、ヤムチャね」
 気を利かせたつもりなのかしら。相変わらず何かズレてるのね、あいつ。呆れたように空(くう)を見上げる母を、彼は複雑な思いで眺める。誰かに教えてもらわないとこんなことも言えないと思われているのだろうか。第一、彼が物心ついたときから、美貌を誇る言葉をさんざん聞かせてきたのは母自身ではないか。
「でもそれ、あたしに言っても無駄よ、トランクス」
 あたしが美人だってことなんか、太陽が東から昇るよりもっと当たり前のことだわ。オムレツにフォークを入れながら、彼女は彼に追い討ちをかける。
「これと思う女の子に言わなきゃ。いないの、そういう娘」
「か、母さん」
「ホント奥手よね、あんた」
 こんなにハンサムなのに。勿体無いわ。彼女は息子の少し血の色を帯びた顔をしげしげと眺め、溜息をつく。
「・・どこにそんな女性がいるって言うんです。第一、こんな世の中でそれどころじゃなかったし―」
「こんな世の中もそんな世の中も無いの。恋は平和だから致すってもんじゃないのよ」
 そんなことも知らないなんて。あんた背は伸びたけどやっぱりまだ子供なのね。悪戯っぽく、しかし愛しそうに笑う母から顔を背け、トランクスは少し口を尖らせる。
「父さんと―」
 短い沈黙のあと、彼は口を開く。
「父さんと、母さんみたいに?」
 開け放たれたダイニングに、半分屋根を失ったリビングからふわりと風が流れ込んだ。頬を撫でる快さに目を細め、視線を戻すと、今まで目にしたことのない表情で、母が彼をみつめている。
「―母さん?」
「早く食べなさい」
 冷めちゃうわ。それだけ言って、母は食事に戻る。置き去りにされた彼は、様子の変わった母に、少し戸惑った。
「あの、母さん」
「トランクス」
 目を上げないまま、彼女は静かに言った。食事する手は、止めなかった。
「がっかりさせて悪いんだけど、あたしたちはそういうんじゃないのよ。以前話したことがあるでしょう」
 なんとなく。
 寂しそうだったから、ついなんとなく。彼女は以前、彼が産まれた経緯について、そう語った。
「それにね、あんたが産まれた時は、世の中嫌になるほど平和だったわ」
 今思や、贅沢な話だけどね。喋りながら、パンを一切れ咀嚼する。彼女のそういう行儀の良くない様子を目にするのは珍しいことではない。
「・・・すみません」
 それでも、彼はいたたまれなくなって謝罪した。息子の、どこかが痛むような顔を見て、彼女は声を上げて笑う。
「どうして謝るの。あんた何にも悪いことなんか言ってないわよ」
 だが彼はもう小さな子供ではない。踏み込むべきではないのだと、知っていた。


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