What A Wonderful World(2)

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 春の風だ。
 周囲に花の咲いている場所などないはずだが、花弁の放つ香りを孕んでいるような気がする。ブルマは、昔父が研究室として使っていた部屋で、その場所の主がよくそうしていたように、窓際にある背の低い棚の上に腰掛け、煙草に火を点けた。トランクスは食料の買い出しに出ている。彼女は午後遅い時間特有の気だるい空気の中に、細く煙を吐き出した。
 父さんと、母さんみたいに、か。
 あの日々を、何と呼べばいいのだろう。
 彼が死んでから、幾人かの男が彼女を通り過ぎて行った。だが彼らとの時間のいずれも、彼と過ごした長くはない年月以上に彼女の中に刻まれることはなかった。
 なんとなく。
 それは間違いないのだ。気付けば、そうなっていた。そんなふうにしか言い表せない。確かなことは、彼らが自分に正直で、そして貪欲だったということだけだ。
 結局、彼女が産んだのは彼の息子一人である。
 縁があったと言えばそれだけのことだ。だが彼女は子供の存在を知ったとき、喜びを感じた。戸惑いが無かったと言えば嘘になる。だが、嬉しかった。何故なのかは知らない。女の持つ本能が彼女にそう感じさせたのか、あるいは別の何かがそこに介在したのか。
 彼がどう感じていたかはわからない。変な名前だ。それが、彼が息子に関して口にしたすべてだった。ただ少なくとも、自分の子であることを理解しているようではあった。
 早過ぎた。
 何であったにせよ、その終わりが。だがそれで良かったのだと、思っている。


 若い母親が、小さな子供の手をひいて通りを歩いている。二人とも、楽しそうに歌っていた。子供が、頭上を飛ぶ蝶に気を取られ、瓦礫に蹴躓いて転びそうになる。その小さな手を母親が引き、助け起こす。ほら、気をつけなきゃ駄目じゃないの。子供をやさしく叱る声がトランクスの耳に届く。
 パセリシティを襲撃していた二体の人造人間が忽然と姿を消した、というニュースは昨夜のうちに世界中を駆け抜けたが、二十年近くに渡りそれらに生存を脅かされ続けた人々が、すんなりとその情報を鵜呑みにすることはなかった。通りを堂々と闊歩している人の数はまだ少ない。それでも、その何でもない光景を尻目に徒歩で市場を後にしながら、彼は改めて世界が取り戻した平和の尊さをかみしめる。
 死んでいった師の笑顔が、胸をよぎった。
『オレの父さんって、どんな人だったの』
 困っただろうな、実際。かつて師に投げかけた自分の言葉を思い出し、彼は苦笑する。
『強かったよ。本当に、誰よりも』
 師は答え、幼い彼の頭に手を置いた。
『僕のお父さんには遂に勝つことがないままだったけれど、そんなことじゃないんだよ。本当に、強い人だった』
 彼の青い瞳を覗き込み、師はよくこう言って微笑んでいた。
『―似てるね、トランクス。君はお父さんにそっくりだ』
『母さんは、悟飯さんが死んだ悟空さんに生き写しだって、いつも言ってるよ』
『うん、僕も鏡を見ては毎日びっくりしてる』
『ねえ』
『うん?』
『オレの父さんは、悪い人だったんでしょう』
『―ブルマさんが言ったのかい』
『うん。地獄にいるのは間違いない、だってさ』
『はは、そうか。そうだなあ・・・それは間違いないかも。確かに色々悪い事をしてきた人だったからね』
 眉を八の字にして困ったように顎の辺りを掻く仕草が、鮮明に甦る。
『君が生まれたって聞いたときは、みんなすごくビックリしたもんだよ。僕のお母さんも、一体何がどうしてそったらことになっちまっただ、って。あの人と君のお母さんが、なんで、ってね。ふふ、クリリンさんも最初信じようとしなかったんだよ。ブルマさんのイタズラに決まってる、なんて言ってさ。ヤムチャさんも・・・』
 言い掛けて、師は唇に複雑な笑いを浮かべた。
『ヤムチャさん、気の毒だったなあ。なんかすごく落ち込んじゃってさ。その時はよく分からなかったんだけど、今になってみるとあの人の気持ちが解るような気がするよ。知ってるかな、ヤムチャさんは一度、君のお父さんとの戦いで・・』
『うん、知ってるよ。母さんが話してた。父さんに殺されたんでしょう』
『君のお父さんが直接って訳じゃなかったんだけどね。ショックだったには違いないさ』
『わかるよ』
『―解るのかい』
『悟飯さん、オレのこと子供だと思ってるでしょう』
 師はこの言葉に吹き出し、腹が捩れるほど笑ったのだ。一頻りげらげら笑った後、目尻を拭いながら、初めて見る師のそんな様子に驚きつつ、馬鹿にされたとむくれる彼の肩に手を置いて、師は彼を宥めた。
『ごめん、馬鹿にした訳じゃないんだよ。ただ、その・・・』
 それきり言葉を濁し、曖昧な笑いで誤魔化してしまったが、あの父と同じ顔で―しかもあの場面で―彼がそんなことを言ったのが余程可笑しかったのだろう。過去で父と一年余りを過ごした今なら、あのときの師の心中が理解できる。
『トランクス、これだけは忘れないで欲しい』
 師は真顔に戻ると、一言一言含めるように、彼に語りかけた。
『君のお父さんは、確かに悪い事をしてきた人だった。でもあの人は、そんな善悪なんかすっ飛ばして、どんな人でも一歩下がって跪かせてしまう何かを持ってる人だったんだ。サイヤ人の王子だってことが理由だったのかどうか、それは僕にも分からない。ただ強さを求める気持ちは、僕のお父さんと同じように、純粋で、まっすぐだった』
 遠くにある、眩しい何かをみつめるような黒い瞳を思い出す。
『誇りに思うべきだよ。あの人の息子であることを』
 その黒に宿った、潤んだような光。過ぎた笑いの名残なのか、あるいは昔日の感傷か。見てはならないものを見てしまったような気がして、彼は睫毛を伏せたのだった。
 師が死んだ日、母が彼に話してくれた。師が、死んでゆく仲間を見捨てたことがあったのだということを。
 戦わないで逃げたんです。ぼく、戦ってないんだ。
 叫び、泣き崩れた声が今も耳を離れないと、母は語った。無論、師自身が望んだ訳ではない。そうして師が生き残らなければ、かれら母子だけが取り残されてしまったのだ。そのとき師が死んでいれば、この世界は明けることのない夜の中に置き去りにされたことだろう。
 悟飯さん。
 苦しかったろう。まだ小さな子供だったと聞く。現に彼が過去で再会した師は、本当に愛らしい少年でしかなかった。かの人は、あんな幼い子供の頃から重すぎるものを負って生き、使命の中に死んでいった。
 通りを行く老人が、訝しげに彼の顔を凝視している。その視線に、彼は自分の頬が涙で濡れていることに初めて気付いた。
「オレ、やりましたよ」
 掌で頬を拭う。そんな仕草は師に似ている、とぼんやり思った。


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