tenderness(3)

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(何してるんだろう)
 トランクスは防砂壁の上に肘を置き、そこから少し乗り出すような格好で母を観察していた。
 彼女はひどくゆっくりと、大事そうに一歩一歩を踏みしめているように見えた。短く切った髪が風になびき、曇天の下で少々暗い色に乱れている。白いコートを羽織り、白々とした砂浜の上を行く母の、それが唯一色彩らしい色彩だった。
 昔から、変わらない。歳を重ねてはいたけれど、彼女はやっぱり美しく、時に無茶苦茶を言って彼を振り回す女王であり続けた。
(・・現に王妃だった事があったっけ)
 彼は気難しい父の顔を思い浮かべてちょっと笑った。今でも時々夢に見る。忘れ得ぬ日々。彼らは異次元で一年を共に過ごした。
(ふふ、怖かったよなあ)
 憧れ、思い描いた人とは違っていた。けれど、慕わしかった。母や自分の想いを裏切られた気がして、青臭い憎しみを抱いた事もあったが、その痛いほどの誇り高さを愛さずにはいられなかった。母もきっと、だれもかれもを遠ざけずにはおかなかった、あの背中を抱擁せずにはいられなかったのだろう。彼は父母の関係について、今はそんなふうに想像している。

 怖かったのだ。
『一緒に生きてみましょう』
 拒絶される事が、ではなかった。その言葉が、癒えぬ傷を負った彼のプライドを一層深く傷つけはしまいか、と恐れたのだ。生き場の無い彼を憐れんでいる。彼女はどこかで、自分の抱く紛らわしい感情についてそんなふうに思っていたのだろう。
(・・馬鹿みたい)
 すべてにおいて鋭い男だ。彼女の中に自分を貶めるものなど何一つ無い、と知っていたからこそ、彼女の傍で生きたのではないか。それはほんのひと時だったが、彼は少なくともある部分、彼女自身よりも彼女を知っていたのだ。
(伝えりゃ良かった)
 あんたは時々ふらっといなくなるけど、そんな癖にももう慣れた。他に行きたい所が無いなら、これからもこうして一緒に暮らしましょう。私はそうしてもいい、そうしたいと思ってるの。
 言葉にしたから何がどう変わる、という訳でもなかっただろう。あの男はやはり、戦いの中に逝く事を選び取ったに違いないのだ。けれど彼を覆っていたあの底無しの空虚の中にも、あるいはその言葉が彼にもたらすかもしれない微かな腹立たしさや苛立ちの中にでも、己の居場所だけは見出す事が出来たかもしれなかった。その一言が、彼のどこかを救ったかもしれなかった。
「・・トシなのかしら」
 酷い話ね。不意に滲んだ視界に、彼女は小さくひとりごちた。頬を汚さぬように天を仰ぎ、コートのポケットから、今朝方トランクスが用意してくれたハンカチを取り出す。彼女を見守っているだろう息子に気付かれないよう背を向けながら、溢れ出てくるものをそっと拭った。
 近頃、妙に思い出すのだ。
 共に過ごした短い日々を。遠い昔、彼女を置いてさっさと死んだ、自分勝手な男の事を。

 戻ってくる母を出迎えるため、砂浜へと続く階段を降りる。そうしながら、師匠の影響は大きい、とつくづく思った。礼儀正しく、誰に対しても分け隔てなく優しかった、大好きな師匠。実父とはあまりに違うその人は、長きに渡って彼の父親でもあり続けた。
 だがやはり、父に会えて良かった、と思う。
 母が知るその人とは違うのかもしれない。けれど彼にとって、大きな経験だった。少年の日の憧憬は、父という生身の人間を経て確かな情愛へと昇華された。彼を、本当の意味で大人にもした。
「寒かったでしょう」
 砂浜の中ほどで会った母にそう声を掛けると、いやね、年寄り扱いしないで、と彼女は苦笑いした。
「思い出の場所なんですか」
 連れ立って歩きながら、彼は何の気無しに訊ねる。母は歩を緩め、ゆっくりと立ち止まって波打ち際を振り返った。
「昔、いい男と連れ立って歩いたの。ここじゃないけど、こういう春先の寒い海をね」
「へえ、誰と?」
「・・それがどうにも思い出せないのよ」
「はは、母さんらしいや」
 彼は再び歩き始めた母の背に従いつつ、軽く笑った。それから、それが彼女一流の照れ隠しなのだろうという事に気付く。
(どうしてこういつまでも鈍いんだ・・)
 余計な気を利かせて迎えに降りたりせずに、もっと時間を与えるべきだったのじゃないだろうか。『誰と?』だなんて、よくもそんな馬鹿な質問ができたものだ。彼は軽く自己嫌悪に陥り、母の小さな足元に視線を落としてそっと溜息を吐いた。
 階段に差し掛かった辺りで、にわかに雲間から光が射した。目の端に映った水面(みなも)の輝きの所為だろうか、何かしら温かさを感じて振り返ると、まばゆい視界の中遠く、海面に突き出す突堤とその先に立つ小さな灯台が見えた。その下で、一組の男女が寄り添って佇んでいる。
(―あれ?)
 あんなのあったっけ。
 だが彼が瞼を一擦りするとそれらは掻き消えており、ただ砂浜と、そこから水平線まで海面が続いているばかりだった。陽に慣れ切らぬ彼の瞳を、遠く近く、波がちらちらと照り返す光が直撃する。
「どうしたの、トランクス」
 錯覚か。眩しさに目を細め、首を傾げながらその声を振り仰ぐと、防砂壁の上から母が彼を見下ろしていた。
「また鍵掛けたのね。寒いわよ、早くしてちょうだい」
 あんたは律儀すぎるのが玉に瑕だわ。壁の向こうに消える彼女の声が遠退く。
(・・・さっきと言ってる事が違う・・)
 ま、いつもの事か。彼は再び軽く溜息を吐き、彼女に傅(かしず)くため砂浜を後にする。銀色の車体が見える所まで登ってキーの解錠ボタンを押し、母の要望を叶えると、彼女は運転席側のドアを開いて颯爽と車に乗り込んだ。
「母さん」
「あたしが運転するわ。ちょっと寄り道していい?」
「ええ、でもどこへ」
「さあね。着いてからのお楽しみよ」
「・・要するにドライブ?」
「たまにはいいでしょ、美しいママンとデート」
 彼女は悪戯っぽく微笑んでエンジンを始動させ、ボタンを押して車体をオープンモードに変える。
「八時から夕食会ですからね、それまでにホテルに戻らないと・・」
 今確か寒いって言ってたような気がするけどな。格納されてゆくルーフを横目で眺めながら、微かに肩をすくめて助手席に乗り込む。あんたに秘書の才能もあるんだって事はよく分かってるわよ、と彼女が眉を上げて大袈裟に頷いてみせた。
 彼らの行く手に、薄く覗き始めた青空が伸びている。遠ざかる海をもう一度振り返ると、あたたかそうな陽の階(きざはし)の下で、こまやかな波頭が金色に輝いていた。


2006.9.7


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