tenderness(2)

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『おまえは・・』
 突堤へと続く階段に差し掛かったとき、彼が口を開いた。
『ん?なに?』
 至近距離にいるせいか、彼の声は闇の中の囁きのように低く、小さかった。自然、響きも柔らかい。この男は昼間でもこんなふうに話せるのか、と彼女はちょっと驚いた。
『おまえは餓鬼が好きなのか』
『・・別に』
『じゃあ何故産むんだ』
『出来たからよ』
『・・・適当なんだな』
『ふふ、そうね』
 十ほどある石段を一段ずつ上り、肩を並べて突堤に出る。暗い色の海にまっすぐ突き出した道の先の灯台は、傍まで来ると思った以上に小振りなものだと知れた。
『けど嬉しかったのよ』
『何がだ』
『この子がいるって判った時よ。そりゃね、ちょっとショッキングだったけど』
 絡めた腕にそっと身体を寄せる。コートを挟んで乳房に感じるその肉の硬さに、咽喉の奥が震えた。
 かなしい。
 病を得て他界した、ただ一人の同胞。この世で最も憎み、最も欲した彼を失ったあのとき、この男は冷えてしまったのだ。多分、永久に。それなのに、その肉体は相も変わらず逞しく―
 痛々しい。
 込み上げて来るものに思わず立ち止まると、彼もゆるりと歩みを止めた。まだ冷たい海風の中でじっと身を寄せ合ったまま、彼らは再び沈黙する。触れた部分に意識を集中させると、そこから彼の中を吹き抜ける乾いた風が流れ込んで来るようだった。
 獣の、遥かな遠吠えが聞こえる。
 そんな気がして目を上げる。だがそこには、寒々しい海をみつめる鋭い横顔があるだけだった。

 彼には見えていたのだろうか。
 半分埋もれた靴先を動かすたび、湿り気を帯びた砂がほろりと崩れた。
 彼女の持つ鮮やかな色を知っていただろうか。凍てついた彼の景色の中に、色彩は残っていたのだろうか。
 庭の木々の瑞々しい緑を知っていただろうか。その先に広がる染み入るような空の青を知っていただろうか。輝かしい朝陽の金色は、彼を傷つけていたのだろうか。泣きたくなるような夕陽の赤は、彼の目にどう映っただろう。漆黒に散らばる星々の白い煌きに、何を思っただろう。彼は息子の柔らかな髪の色に、気付いていただろうか。手を伸ばせば届く距離にいた、血を分けた我が子の。
(何にも知らないんだわ)
 時に憑かれたように溺れる夜の中でだけ、彼らはきつく肌を合わせ、呼吸を合わせて世界を共有した。だがどこまで行っても、視界を共にする事は出来なかった。薄闇の中に仄白く浮かぶのは、互いの身体だけだ。
 あの寂しい男の事を、彼女は何も知らない。彼が最後まで孤独であったという事の他には、何一つ。

 
『男か』
 目を閉じ、一心に彼を感じている彼女の耳のすぐ傍で、不意に低い声がした。
『男?』
『その餓鬼だ』
 顔を上げた彼女の腹部にちらりと視線を遣り、男がごく静かに呟く。
『・・わかるの?』
『お前は分からんのか』
『楽しみにしとこうと思って訊いてなかったのに』
『訊く?』
『お医者さんよ。自分じゃ分かんないのよ、普通。あんたはどうして?気で?』
『かも知れん』
『かもしれんて・・』
『そんな気がするだけだ』
 小さな溜息と共に呟き、男は水平線に目を戻した。これ以上この話を続ける気はない、という事らしい。
『ふうん・・』
 彼女もまた口を噤む。どちらからともなく、再び歩き出した。コンクリートの上に、二人分の靴音が響く。風が撒いた薄い砂を踏みしめる音が伴奏する。
『ベジータ』
 彼らは暫く黙って歩いていたが、道のおよそ半ば過ぎまで来たとき、彼女が口を開いた。男は答えない。彼女に視線を遣る事もない。歩調も変えない。けれど彼女には、彼が次の言葉を待っているのだと感じられた。
『一緒に・・・』
 言い澱んだ彼女を見遣り、微かに首を傾げて男が先を促す。だが言葉はそれきり行き場を失い、立往生してしまった。
『ううん、なんでもない』
 辿り着いた灯台の下で、彼女は彼の背に正面から腕を回す。小柄な彼のコートの中に、それでも彼女は半分納まってしまった。ひっそりと目を瞬(しばたた)かせ、今そこにある確かなぬくもりを大切に抱く。
 そのとき、彼の背後にさあっと陽が射した。雲が割れたのだ。灰色に塗り込められていた海が、眩しくきらめく。彼女はなつかしい懐から顔を上げられずにいたけれど、細やかに揺れる輝きの中で、男はきっと美しかっただろう。
 あたしと一緒にいましょう。
 それだけだった。だが言ってしまえば、彼が光に溶けて消えてしまいそうな気がした。


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