tenderness(1)

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「停めて」
 突然の言葉に、トランクスが車を路肩に寄せた。
「どうしたんです」
 助手席の母を見遣ったが、彼女の視線は彼を通り越している。それを追って振り向くと、防砂壁越しに遠く海が広がっているのが見えた。
「歩きたいわ。待っててくれる?何なら先に宿に戻ってくれてもいいけど」
「別に用も無いんだし、待ってますよ。でもまたなんで・・」
 寒々しい冬の海に興味を示した母に少なからず驚いたが、ちょっとね、とだけ言い残して彼女は車を降り、白いコートの襟を立て、ポケットに両手を突っ込んで砂浜へ続く階段に向かう。
(母さんったら、また・・・)
 エンジンを止めながら、トランクスが眉をひそめた。
 母は年齢を明かそうとしない。息子である彼にもだ。彼は彼女が幾つなのか本当は知っていたが (亡き師が生前うっかり漏らしたのだ)、敢えて正確なところは知らないという事にしておいた。彼は既に、謎を持つ事が女性を若々しくするのだと実感する齢に達している。だが彼女はもう、両手をポケットに入れて歩いて大事無いという肉体は失っているはずだ。
「転んだら危ないからって言ってるのに、もう」
 不測の事態に備えるため、彼はぶつぶつ言いながらも車から降りる。
「さむ・・・」
 防砂壁の向こうを窺いながら、トランクスはぶるっと身体を震わせた。コートをホテルに置いてきた事を後悔する。春先とはいえ、今日のように陽が隠れると寒さが堪えた。


 学会場を出てからずっと、今回新しく発表された理論について考えを巡らせていた。しかしふと目を上げた先に暗色の海面が広がっており、急に記憶が呼び起こされたのだ。
 昔、二人でこんな春先の海岸を歩いた事がある。
(どうしてだっけ)
 普通の男となら不思議でも何でもないが、自分は彼をどうやってそんなところまで引っ張り出したのだったか。いまいちはっきりと思い出せなかった。何か用でもあって、彼を回収しに行った帰り道だっただろうか。
 それが一度きりの、彼とのデートの思い出だった。
(あれデートって言うのかしらね)
 半時間ばかり、ただ歩いた。だが彼が彼女に歩調を合わせたという事実だけでも、十分特別なイベントだったと言えるかもしれない。
(妊娠中だったわ、確か)
 だから、という訳でもあるまいと思うが。

 こんな所に何の用があるんだ。
 きっとそう言って渋るに違いないと思っていたが、ベジータは意外にも大人しく彼女に続き、浜辺に降りて来た。背後でさくさくと砂を踏む音が、彼女よりも少しだけ長い間隔で、少しだけ重そうに、白く曇った寒気の中に響く。
『あの先っぽまで歩きましょう』
 ブルマは彼を振り返りながら、鉛色の海に突き出す突堤を指差した。先端に小さな灯台が見える。ぽつんと佇むその白い姿が、巡らせた彼女の視線の先で、さしのべた自身の白い指と重なった。
 ここのところ、彼はひどく無口になっていた。もとより饒舌な男ではなかったが、最近では彼女が話し掛けても言葉を返さない事がよくある。曖昧な相槌などは打たない性質(たち)だったし、一声も発さない日も珍しくなかった。
 彼女の身重が判明した頃と重なっていたので、最初はそれが気に入らないのかと少々不安になったものだ。安定期に入ったらできるようになるわよ、と話の核心を逸らしながら冗談めかして言うと、彼は彼女をぎろりと睨んでぷいと出て行ったきり、何週間もC.Cに戻らなかった。
『あんた、子供嫌い?』
 コートのポケットに両手を仕舞い、波打ち際を見下ろしながら黙々と歩いていたベジータが、ペースを落とさないまま振り向いた彼女の唐突な言葉に、顔を上げる。
『・・嫌いだ』
『だわよね』
 億劫そうな呟きに、彼女はちょっと肩を竦めて見せた。俺が子供好きに見えるとでもいうのか。以前の彼なら、そういう言い回しで会話を楽しんだだろう。
『自分の子も?』
『俺に餓鬼はいない』
『いるじゃない、ここに』
 少し膨らんだ腹に手を遣って立ち止まり、突き出すように見せ付ける彼女の脇を、彼は黙ったまますり抜けてゆく。
 女が勝手に産み落とし、勝手に育てるもの。あるいは一人で育つもの。
 彼は、子供というものについてそう考えているのだろう。家庭を営み、夫婦で子供を育むといった環境が、これまで彼の目に入る範囲にあったとは思えない。彼女はここでのやり方を彼に押し付けるつもりはなかったし、そうしたいとも思わなかった。ただ彼を父親に持つという事実を、生まれてくる子が呪わないで済むようにしてやりたい、とは思うのだ。そもそも、彼がこの先も彼女の傍に留まり続けるとは限らないのだが―
『ちょっと、待ってよ』
 彼女は小走りに彼を追いかけた。呼び掛ける声にも彼は歩を緩めようとはしなかったが、元々歩みがゆっくりしていたので、その背に追いつくのは容易だった。
 彼らは並んで砂浜を歩いた。そっと腕を取ると、彼は微かに顔を顰めてみせたものの、特に拒むような素振りは見せなかった。


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