親愛なる者へ(3)

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「おい」
 すぐ傍で低い声がして、彼女は驚いて顔を上げた。部屋に戻ったと思っていた男が、またも腕組みして立っている。
「―何を泣いてる」
 彼は彼女を見下ろし、ひどく不可解そうに眉を顰めた。
「・・部屋に帰ったのかと思ったわ」
 顔を伏せ、掌で覆うようにして涙を拭った。男はそれには返事をせず、小さく渋面を作ったまま彼女の隣に少し離れて腰掛けた。
「色々ね、思い出したのよ」
 慰めも同情も、口にはしない。今の彼は、それを必要とも、受け付けようともしないだろう。
「小さい頃にね、絵本を読み聞かせてもらってると、どうしても納得できない場面が出てくるのよ。よく母さん達を困らせたわ」
 彼女はとりとめのない昔話を始めた。男は黙っている。だが彼女の声に耳を傾けているのだということは感じ取れた。
「毒入りのりんごなら苦かったはずだわ、どうして気がつかなかったの、とか、カボチャが馬車になるはずなんかないわ、あれは絶対ホイポイカプセルだったのよ、とか言ってね」
 すごく理屈っぽかったの。言いながら、自分の鼻声がおかしくて、ふふ、と薄く笑った。そこで初めて男が合の手を入れる。
「何のことだかよく分からんが、要は昔から生意気だったという訳だな」
「失礼ね、頭が良かったって言ってちょうだい」
「物は言い様だ」
「フンだ」
「で?なるほど泣けてくる話だが」
「・・他にも色々思い出してたのよ。これは面白いだろうと思って聞かせてあげたんじゃないの」
「何が面白いんだ?」
「あら、今ひとつだった?じゃあね・・」
「もう結構だ」
 考えを巡らせる彼女を遮り、男は組んでいた両腕を解いて、左手を彼女の膝に伸ばした。
「・・なに?」
「貸せ」
 彼はそれを自分の方に少し傾けて引き寄せ、彼女の腿に頭を預けて目を閉じる。
「・・いい子いい子して欲しいの?」
 初めてのことで実はひどく驚いたのだが、彼女はそれを態度に出さず、指の背で彼の頬を撫でながら、わざと挑発するようなことを言ってからかった。
「お前は―」
 男は薄く瞼を開き、彼女を軽く睨み上げたが、すぐにまた目を閉じる。
「お前の体は心地がいい」
 それだけだ。彼は呟き、目許に覆い被さる乳房に僅かに鼻を押し付けるような仕草を見せた。
「うん・・・」
 硬い黒髪に触れる。そして彼女は、自分もこの男に触れているのが好きなのだと、初めて言葉にして思った。想いのありようは多分違っているのだろう。だが彼らは、そのとききっと同じ快さに漂っている。
 死んだのが友人ではなく、このひとだったら。
 甦りを拒否したのがこの男であったとすれば、と彼女は考える。
 自分はどうしただろう。勝手なことを、と腹を立てただろうか。戻って来ることを望んだだろうか。
 だとすれば、自分はこの男に何を求めてそうするのだろう。失う訳にはいかないと思わせるものがあるのだとすれば、それは何なのだろうか。快楽か、熱か、習慣か。ひょっとするとある種の情愛なのか。あるいは目の離せない子供を心配するような心持ちなのかもしれない。何にせよ、あまり想像したくない事態ではあった。どうしただろうというよりも、自分はどうすれば良いのかが分からなくて困っただろう、と彼女には思える。
 顎の下から耳朶の辺りをくすぐると、男は少し眉を顰めた。耳株(じかぶ)に触れると、よせ、と目を閉じたまま小さく唸る。寝入り端を邪魔されたせいなのだろう、その声は高く掠れていた。
 ここで眠っちゃうつもりなの。
 黒い髪に指を入れ、梳くようにして繰り返し撫でる。規則正しい呼吸に紛れて、微かに漏れた満足そうな溜息が耳に届いた。
 しょうがないわね。
 ここで夜を過ごす覚悟を決め、彼女はそっとサイドテーブルに手を伸ばし、照明の操作盤でさらに灯りを落とした。窓の外には、遠く地平線まで続く夜の都が、中庭の垣根越しにまぶしく揺れている。彼女の愛する友人と、彼の息子が守った光。あれは、膝の上で静かな寝息を立て始めているこの男の故郷にはなれないだろうけれど―
 孫君。
 人生の半分を同じ空の下で生きた。親愛なる友へ、彼女は静かに別れを告げる。
 さよなら。
 残された彼等には、彼のいないこの世界で「平凡な」日常を模索する日々が始まる。不安が無い訳ではなかった。彼と彼女が生きた年月はあまりにも、違う。
 でも大丈夫よ、きっと。
 想像してみる必要などない。もう現実だ。そしてこの今、彼らはこうして共にいる。同じぬくもりを、感じている。
 不意に視界が曇った。
 一緒に居ましょう、ね。
 こぼれ落ちた涙が男の髪に吸い込まれる。哀惜の涙か、同情のそれか。彼女にも、もう分からなかった。

 2005.10.2


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