黄昏(1)

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「明日だ」
 宮の外庭、都に向かって突き出た高台の一角に至ったとき、王が唐突に沈黙を破った。
「明日、惑星フリーザに出撃する。余らはおそらく」
 足下を覆う青草に彼が視線を落とすと、もう半分ほど沈みかけた陽がその頬骨の上に睫毛の影を長く落とす。
「再びこの地を踏む事はない」
 低い声が、頭の隅に響いてくる。后は息を詰め、ほとんど睨むようにして隣に立つ王の顔に見入っていた。彼女は昔から―そうだ、初めて会った少女の頃からだ―彼のこの伏目の表情が好きだった。
(見事なお顔よ)
 造詣がどうこう、という事ではない。彼はその纏う空気で人の魂を揺さぶる。だが容貌は確かに端正で、そこに湛えた貴種独特のひんやりした色であるとか、何かを微かに憂えるような眉根の陰だとかいったものは、このサイヤの王が醸す匂いに奥行きを与え、その濃度を高めている。
「・・刺し違えられまするか」
 溜息の漏れそうなのを堪え、后はやっとそれだけ言った。
「それすらもかなわぬ、と申さば出撃の意味が失せような」
「ではなぜ、お行きになるのです」
「知れたことを」
 彼奴(きゃつ)が仕掛けるが先か、我等が先んずるか。単に順番の問題にすぎん。鼻を鳴らし、王が顔を上げた。息を呑まぬよう、彼女はひっそりと奥歯を噛み締める。その場に跪きそうになる衝動に抗い、握り込まれてゆく己の、小刻みに震える拳に意識を集中させた。
 王の横顔は、それが人の顔とは信じられぬほど清らかに厳(おごそ)かに、消え行かんとする陽光に照り映えている。常のふとした瞬間、濃褐色の瞳をよぎったあの薄暗さなど、今は微塵もない。それは一つの波紋さえ無い、しんと静かな金色の湖面を彼女に思わせた。
「座して死を待つ、という訳にも行かぬのでな。全く、王など不自由な身分ぞ」
 だが彼がそう言って目元を少し緩めた瞬間、静寂はその表情から嘘のように失せた。
「王でなければ、いかがなされました」
 瞳に浮かぶ光の、常には無い物柔らかさに何故か動揺し、何か返そうと苦し紛れにそう発した。発した瞬間、なんという愚問か、と後悔する。彼女の伴侶は、王なのだ。王でない、という可能性を想う事など、彼の人生にはなんの意味も無いではないか。
 だが、その王は嗤いもせずに答えた。
「立ち向かったろう。敵わずともな。サイヤ人であれば誰であろうとそうするはず」
「・・・それでは、御身分が足枷だという訳でもないのでは」
「・・・そう申さばそうよな」
 一瞬、気まずい沈黙が流れる。が、どちらからともなく吹き出し、やがて弾けるように笑い出した。距離を置いて背後で控えていた近侍達が、何事だろうと顔を見合わせている。
「ふふ、ふふふ、そなたがそのように笑うところなぞ、初めて見た」
「わたくしも、あなたがそのように面白い方だとは存じませんでした」
「なるほど、面白いか」
「ええ、ええ」
 彼らはそして―本当にそれは彼女にとって生まれて初めての経験だったのだが―腹を抱え、よろめきながら馬鹿笑いを始めた。近侍達が呆然と立ち尽くしている様が目の端に映り、彼らに拍車を掛ける。遂には崩れるように芝の上に座り込み、涙が滲むまでその一生分を笑い尽くした。
「美しいな」
 ようやく波が引き、可笑しさが鎮まったころ、隣で呟く声が聞こえた。顔を上げて視線を追うと、彼は赤い地平の果てまで広がる王都の輝きを、感慨深げに見下ろしている。
「よくぞ、ここまで参られたもの」
 あなたなればこそ、と彼女は初めてそう言葉に出した。彼の父が王であった時代、世界はそこここが赤く爛れ、荒れるに任されていた。先代に限った話ではない。差し迫って必要とされなかった、という事も理由ではあったろう。サイヤの王室が輩出する王は、統率力はあっても、先々まで見通す政治力というようなものは持ち合わせない者が殆どであった。彼らによる『力の統治』は変革を拒み、その結果として随所に腐敗を招いた。現王の登極はサイヤの社会に劇烈な変化を強いたが、またその登極こそが、一族にこのかつてない繁栄をもたらす事になったのである。
 だがその、薄氷の上を行くような危うさ。悉くが、急速に過ぎるのだ。彼を高く評価しながらも、彼女はその点で彼としばしば衝突したものだった。
「なんと、そなたが余を誉めようとは。世も末であるな」
「ええ、ほんとうに」
 交わす際どい軽口のどこにも、悲壮な響きは無い。お互い、もうとっくに腹は括っている。
「ただ一人の、本物の王ですとも」
 あなたこそは、とほとんど口の中だけで后は大切に囁いた。耳に届いたかどうか、街を見下ろす王の表情は動かない。
 彼を急かした重圧がいかなるものであったか、事ここに至って初めて理解できたのではないか、という気がしている。サイヤ人は一刻も早く、フリーザという将来必ず脅威となる存在に打ち勝つ力を得ねばならなかった。同盟ではなく隷属を強いられる前に、それを拒んで殲滅される前に、である。彼らを富ませたフリーザとの盟約は、同時に巨大な時限爆弾を彼らの元に土産してゆく事になった訳だ。王には、きっと最初から分かっていたのだろう。それでも、拒絶できる相手ではなかった。フリーザと邂逅してしまったそのとき、採るべき途は閉ざされてしまったといえる。同族達の才能でもある、『進化』という可能性に賭ける途を除いて。
 時間を稼ぐ為に、王はあらゆる事を甘受してきた。実質的には臣の扱いを受けても、決して表情を変えなかった。猿と蔑まれても、優雅な笑顔で切り返した。太子を差し出せと要求されれば、黙ってそれに従った。屈辱は、きっと死よりも無残に彼を切り刻み続けたであろう。だが彼は耐えた。耐えて耐えて、『時の到来』と戦い抜いた。
 今、“時”は来た。サイヤ人は、遂に間に合わなかったのだ。
 だが不思議と、敗北感は無いのであった。むしろ一矢報いるその瞬間に向けて、胸躍るような思いで牙を研いでいる。剥き出した途端にへし折られようとも、彼らはやっとサイヤ人に戻れる。そして王の孤独な戦いもまた、そのとき終わるのだ。彼が流し続けた血は、遂に結実することは無かったけれども―



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