黎明(3)

 1  2  王室別館TOP  Back
 

 夜が明けようかという頃、人の気配に目を開いた。見ると細高い窓の傍、薄明の中に、昨夜は渡りの無かった王が腰を下ろしている。瞼を動かしただけで身じろぎしなかったうえ、少し距離があった事も手伝ってか、彼は彼女の覚醒には気付いていないようだった。
(なんと、このような時間になって)
 元気なお方だ、と半ば呆れながら観察する。王は一人掛けの椅子に腰を下ろし、窓の外をぼんやり眺めていた。そこで漸く彼が宮服(戦闘服)を着込んだままである事に気付き、ここに来るまで―おそらくはつい先刻まで―表で執務していたのであるらしい事に思い至る。
(いや、お疲れなのか)
 だが座面に片足を預け、立てた膝に片腕を預けた彼の姿は、この広大な惑星を統治するカリスマというより、どこか軽快な少年のように感じられる。その様は、男性的で厚い体の輪郭とひどくアンバランスで、しかし奇妙に懐かしく思われて彼女はしばし戸惑った。それから、自分がこの人の少年時代を見知っていたのだ、ということを思い出す。ここへ輿入れしてからそれほど時間が経った訳ではないが、当初は強かったその時代の彼の印象が、彼女の中ですっかり薄れていたらしい。それはそうだろう、彼が日々彼女に見せ付ける衝撃的な姿が、それを拭い去ってしまったのだ。
(客観的に見て、良きお顔だ)
 目が離せなくなってしまった自分に、黙ってそう言い訳してみる。要するに、彼はとても魅力的なのだった。実に危険な話だが、女官たちなどもうっとりしながら彼についてそう噂する。女という女を骨抜きにしてしまう何かを、彼は持っているのであるらしい。おそらく、王であることとは無関係にだ。世の中にはそんな男がいる、と彼女はここに来て初めて思い知った。整ってはいるが、特筆すべき美貌の持ち主という訳ではない。堂々とした綺麗な体躯も、同じほどのものを持つ男ならいくらもある。むろん(王なのだから当たり前だが)、女達の前で力を誇示するパフォーマンスを見せるでもない。女達は―『彼のもの』ならともかく、そうでない女までである―彼の何に屈服してしまうというのだろう。
 恐ろしいことに、彼女も例外ではなかった。今では彼の吐き出した空気をすら、美味いもののように感じ始めている。そしてそんな自分に、恐怖と共に、罪悪感に似た何かを抱く己がいる。前夫がまるで崇高なもののように大切にした自分が、王の前ではただの濡れた肉のようになってしまう。そうして拷問のような快楽に支配されるたび、前夫に対するすまなさのようなものが募ってゆく。
『頑なに己を拒絶するさまも悪くはないが』
 と王は彼女を抱きながら言う。
『もっと欲しいまま振舞ってみよ』
(そんなこと仰られても―)
 彼女だって娘のままこの後宮に入ったわけではない。それが己の価値を下げる訳ではないのだと頭では解っている。王の言葉どおり、淫らで愚かしい自分を、そのすべてを受け入れてみるがよい。どのみち足を踏み入れているなら、そういう己を思うさま愛するがよいのだ。ただ、どうすればその殻を破ることが出来るのかが彼女には分からない。どこか己を醜悪でグロテスクだと感じないではいられない。
 王の額から鼻先に掛けての鋭い稜線を一心に辿る己に気付き、彼女は無理矢理瞼を下ろした。あの窓の外に広がる暁の宮殿の美しさを、彼女は知っている。共に眺めてみたい、あの視線の彼方にあるものを共有してみたいと―
(ならぬ)
 彼女は目を閉じたまま、その衝動を抑え込んで、殺した。心を渡してはならない。彼は弟とは違う。渡せば、負けだ。本能がそう告げている。
(でも、もう)
 遅いのかもしれない、とは薄々感じ始めていた。この場所特有の極端な不均衡が生む魔法に掛かっているのだ、と思い込もうとしてきたが、違うのかもしれない。肌を磨き、髪に艶々と化粧を施して彼女が待つのは、『この後宮で唯一の男』ではないのかもしれない。
(ああ、なんということ)
 王が他の男であったなら、と考え、それが耐え難い想像である事に遂に気付いて、彼女は戦慄を覚えた。
(嫌、嫌だ)
 負けたくない。義務も情けも、気紛れも欲しくはないのだ。負けてはならない―絶対に!
「どうしたのだ」
 低い声が落ち、はっと目を開いた。薄い逆光の中、すぐ傍に立って王が彼女を見下ろしている。
「夢でも見たか」
 大きな手が、握り締められた彼女の手に触れた。掌の中で、白絹がきしきしと微かな悲鳴を上げている。それで彼女は、自分が体を丸めて震えながら、シーツを固く握り締めて涙を流していたのだと気付いた。
「まるで幼子よな」
 王が寝台に腰を下ろし、濡れた顔に纏わり付く長い髪を掻き上げた。今さっき少年のようだと感じた男の大きな掌が、彼女の頬から涙を拭い取る。
「どのような夢を見たのだ」
 柔らかな低音で、王は彼女に問うた。そんなふうに返答を要求しない問いを彼が発する場面に、初めて遭遇した、と思った。だが間違ってはならない。他の誰にでも見せる、かりそめの戯れに違いないのだから。
「あの人の夢を」
 考えてそう返した訳ではなかった。だが彼女の口からは、前夫の名が零れ出ていた。
「わたくしを呼ぶのです、優しいお声で」
 王は黙っている。だが効果は覿面(てきめん)だった。彼の顔から、みるみるうちに表情が失せてゆく。自分の宮殿で、他の男を夢に見る妻。彼にとっては、きっと未知の領域だ。
「わたくし、あの人が好きでした。心から。ここへ来て、それが分かりましたの」
「・・そうか」
 低い響きに、きっとまたあの高圧的な態度で散々辱められるのだと覚悟した。だが彼はそのまましばし間を置き、
「邪魔をしたようだ」
 と呟くと、彼女の髪を流れに沿って一梳きし、静かに立ち上がった。
 罠なのだ、きっと。
 そう思いながらも、寝台の足元の視界から彼の背が消えたとき、彼女は寝具を跳ね除けて飛び起きていた。薄い夜着の裾を風に翻らせて走り、肩を肌蹴させながら、今しも扉を開こうとしていた王の行く手を遮る。
「忘れたいのです。あの人を追い出してくださいませ」
 罠ならば罠で良いではないか。そうと知って掛かったならば、それは掛かった事にはならない。
「無茶な事を。死んだ者に手出しは出来ぬ」
 王はその口元に薄暗い笑いを浮かべ、彼女の脇をすり抜けようとする。
「抱いてください、早く」
 だがそう囁いて首根にかじりついた時には、既に計算など無かった。
(髭が痛い)
 黎明の光を頬に感じつつ、夢中になって彼の唇を塞ぎながら彼女が思った事と言えば、ただそれだけだった。
「夜明けだ。もう行かねばならん」
 だが王は、そう言って身体を離そうとした。今宵また来る、と扉に手を掛けたが、
「嫌です、行かせません」
「我儘を申すな、そなたらしくもない」
「行くと仰るなら、殺して」
 叫び、急激な昂りに震える身体で再び王を引き止めた。厚い宮服に遮られ、どんなに乳房を押し付けてもその身体の熱さは十分に伝わって来ない。そのもどかしさ、息苦しさに、彼女はますます昂ってゆく。
「覚悟致せ」
 低く呻くような声が響いた。首筋に触れる髭の刺激も、今は甘い疼きを呼ぶ。背を登る指の蠢きに悦び、彼女は細く鳴いた。


2007.12.31



 1  2  王室別館TOP  Back