開幕、そして追憶(3)

 1  2  王室別館TOP  Back
 

 王子だった頃、父の妃の一人に激しい恋情を抱いた事がある。
 父が妃数名を王宮内の自室に伴っていたところに、アクシデントで鉢合わせしたのだ。王の周りにいる女は、みな大抵美しい。その中でも際立つ美貌、という訳ではなかったのだと思う。編み込んだ黒髪にあしらう白い花一輪のみ、他には宝石の一つすら着けず、華美に装った女達に混ざって父の後ろに従っていた。だがそうしてひっそり立っているだけで男を掻き乱さずにはおかない、そんな女性(ひと)だった。
 その後一年足らずで他界した。問い質す彼に死因は病だと父は答えたが、彼は信じなかった。毒をあおらされた、と噂で聞いていたのだ。彼との不義を疑われ、王に責められたのだと。この後しばらく、彼は手当たり次第に女を求める荒れた生活を送った。既に成人している第一王子は、この頃に生まれている。その母親は既に死んだが、どんな女だったのか思い出せなかった。
 あまりの荒廃ぶりに、廃太子も囁かれた。
『廃さぬ』
 だが父はそう断言し、誰が何と言おうと彼を退けようとはしなかった。陛下に良からぬお心を抱かれるやもしれません、そうなってからでは遅いのです、と説く臣下の言葉には、それもよかろうと重い口調で答えるばかりだったという。
(ならば望みどおりにしてやる)
 彼は父を亡きものにしようと決意した。命を奪うのではない。彼にとって父の罪は、それで済まされるほど軽いものではないのだった。王として、抹殺する。父の、王としての名をこの宇宙から完全に消し去るのだ。その上で、長く生かす。我が子に存在を揉み消され、戦う事も出来ないまま誰からも忘れ去られた惨めな余生を送らせてやろう。気位の高い父にとって、それ以上の仕打ちはあるまい。彼は手始めに父を幽閉しようと真剣に計画を練り始めていたが、父は確かに何の志も偉業も持たぬ男だったとは言うものの、一人の王であった。今思うと、己の若さと無謀に首筋が冷える。
 チコに会ったのはそんな時だ。多くのサイヤ人が置かれている一種人的不経済とも言うべき状況を彼に教えた女だが、気性が柔らかくてよく気の回る、歌舞の上手だった。破顔したときの愛らしさは、野暮ったい厚化粧も帳消しにした。
『貸してみよ』
 早く醒めた朝、手ずから化粧を施してやった。彼女の紅筆を弄っていて気紛れを起こしたのだ。初めてだったが、我ながら良く出来たと思った。だが完成した顔を鏡の中に見て、チコは何故か号泣した。幸せなのだ、と泣きむせんだ。それからみるみるうちに洗練されていったが、のほほんと気の抜けたような明るさは相変わらずだった。彼女と接していると、父への怨念で凝り固まっている自分が、なんだかとてつもない阿呆のように思えてきたものだ。
「他の方の事を考えておいでだわ」
 ヴィナが吐いたおそろしく鋭い言葉に、彼は我に返った。思わず離し、表情を確かめる。
「ほほ、そんなお顔をなさらないで。よろしいのよ、どなたを想われようとも」
 その後の沈黙は、彼女をいじらしくも、酷く冷淡にも見せた。この女の言葉は、意を解しかねる事が多い。理由は簡単で、表情や声音から明確な感情を読み取る事が難しいのだ。貴種にはこの手が多いが、彼の前でそれを保ち続けられる女など初めてだった。つまり生まれだけが原因でもないのだろう。元々軍人であったことも関係しているかもしれない。そういえば彼女と一緒に居ると、表で男と向き合っていると錯覚しそうな瞬間もあった。
 自分には女を狂わせる何かがあるらしい、と気付いたのは、まだ子供だった頃だ。通常そうした子供は女を忌み嫌うように成長するらしいが、彼は違っていた。克服すべきトラウマが無いという事もあろうが―
 自分をみつめる女達の目に剥き出しのまま渦巻くものに、彼は長年親しんできた。憧憬、慕情、欲望、妄執、殺意、狂気。果てに、本当に狂ってしまった者もいる。だがその狂った姿をすら、狂ったなりに愛でてしまえるのが彼なのだった。酷薄さではなく、彼に言わせればそれは天賦の才である。世に色を好む男は多い。だが己ほど女というものをその存在ごと愛する事のできる男など、そうはいまい。彼にはそういう自負があった。
 だがこの女からは、そうした原色の情念というものが見て取れないのである。彼は、女が自分に固執しないという状況を殆ど経験した事がない。他人の思惑など無いことにできる王という立場でありながら、だから彼女を訪れるとき、彼は少々居心地の悪い思いをするのかもしれなかった。ある部分幼く、ゆえに御しやすいと最初は感じたのだが、知れば知るほど接した事の無い類であると判ってきて、近頃ではひどく勝手が違う。
「ああ、眠くなってきましたわ」
 指先で品良く口元を隠しながら、ヴィナが小さく欠伸した。形良く整えられた爪は、常とは違って裸のまま、彩られていない。妃はそうした装飾の類を一切取り去って産に臨む。まだそこまでは手が回らなかったのだろう。小さな隙を見つけた気がして、彼はひっそりと笑った。
「休むがよい、余は表に戻る」
「もう?」
 もっと居てくださらないの、と妃が彼を見上げた。
(・・わからぬ)
 本心から引き止めている。そのまま振り切って去るには可憐な風情だ。
「わたくしが眠るまではここにいらして」
 と彼の手に触れてきた。時に、こんな姿も見せる。と思うと、本当に同じ女なのかと疑わしくなるほど彼に無関心だったりもして、彼を慕っているようなそうでないような、なんとも掴み処の無い妃であった。
「温かいお体」
 お心とは裏腹に、と彼の腿を撫で、女は信じられないような不敬を働いた。撫でていた場所に、横になって頭を預けてきたのである。
「ねえあなた、何かお話をしてくださいな。わたくし、あなたのお声がとても好きなの」
 彼女はそうしてしばらく満足そうに目を瞑っていたが、ぱちりと目蓋を開き、彼を見上げてそう囁いた。彼は驚きと呆れで怒り出す気にもなれないまま、その様子を黙って見下ろしている。静脈が透けるほど白く、ほくろ一つすら見当たらない完璧な肌は、両親や前夫がいかに彼女を大切にしてきたかを物語っていた。サイヤ人である以上、この女も満月の恵みを受けると獣形に変ずるのだろうが、彼にはどうしてもその姿が想像できない。
「あれは・・」
「なあに?」
「弟は、こうしてそなたを甘やかしていたのか」
「・・さあ」
 忘れてしまいました、と女は再び瞼を下ろす。先程までよりも、口調が少々素っ気無い。
「でも」
「でも?」
「こうやって、思いの向くまま振る舞う事ができれば良かったのかもしれませんわね」
 と妃がうっすら笑った。彼女は目を閉じているのに、その瞳に黒々滲むものが見えるようだと彼は思った。
「不器用ですのよ」
 暫く黙っていた女が、突然そう呟いた。既に夢の入口にいるような声だ。
「誰の事だ」
 と彼は問うた。だが返ってくるのは、もう安らかな寝息ばかりであった。


 2008.8.3



 1  2  王室別館TOP  Back