開幕、そして追憶(2)

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「お渡り!陛下のお渡り!」
 後宮の回廊を、先触れの女官がベルを振り回しながら走り抜けて行く。何の報せも受けないまま、王が突然門前に現れたというので、女官達はほとんど恐慌状態に陥っていた。
「お廊下、朝拭いたきりなんじゃ・・どうしましょう!今から係を呼んだのじゃ間に合いませんわよ!」
「ちょっとあなた、お部屋を回って白いお花を集めてきてちょうだい!急いで!」
「香油は?ノリラの香油はどこ!?」
「知りませんわよ、あれは女官長様が管理しておられるのだもの!」
「どうしてお産のあったその日にお渡りがありますの!?」
 慣例で、王は産の前後は後宮に入らない。実際的な意味合いもある。女官達が多忙で、王を迎える準備にまで手が回らないのである。
「あなた、あの陛下にそんな常識が通用するとでも思ってらしたの?今までだって、二日目の夜にはもうお越しあそばされたりなさってらしたじゃないの」
「まああぁ、そんな事仰るんなら、皆様にそう注意して差し上げたらよろしかったんじゃありませんこと!?」
「あなたがた、無駄口は結構よ!早く手を動かしてくださいな!」
「お静まりなさい!」
 凛とした高い声に、腕一杯に白い花を抱えた女達や、下位の女官以外持ち慣れない清掃用具だの、やっと探し出した香油皿だのを手に右往左往していた女達が、一斉に凍りつく。声の先、正門に続く大廊の果てには、彼女達にとっては王その人より恐ろしい女官長が立っていた。
「急の時ほど落ち着きなさい、と注意したではありませんか」
「で、でも女官長様、陛下が御門前に、急に」
「だから何だと言うのです。敵が攻め入って来るわけではないのですよ」
「はい・・・」
「落ち着いて、可能な限りの準備をして、あとはお許しを頂くしかありますまい。こういう時です、あなたがたが怠けていたのでないなら、御理解下さらない陛下ではありません。間に合わないなら覚悟を決めて、せめて見苦しい様を晒すのはおよしなさい」
「は、はい、申し訳ございません」
 と項垂れたところに、女官長の背後から王がぬっと姿を現したものだから、驚いて花を取り落とす者、慌てふためいて床の大花器に蹴躓くもの、急ぎ端まで下がろうとして後ろの女官とぶつかり、団子になって床に尻餅をつく者、とたった今注意された事など役にも立たず、再び大騒ぎになった。
「わたくしの教育が至らぬために、見苦しいところを御覧に入れてしまいました。どうか御寛恕くださりませ」
 どうにか廊の両側に整列して跪いた女官達の間を、王の後に続きながら女官長が詫びた。とは言うものの、あまり悪びれた様子もない。予めの報せが無かったのだから当然だ、という思いがあるのだろう。彼もそう思っているから気にはならない。価値観に、通ずるところがあった。彼が彼女を重宝する理由の一つだ。
「ヴィナは?産室か」
 さっき生まれた子の母妃を、彼はそう呼んでいる。ヴィナシュリア、と呼ぶべきところを縮めた。長くて面倒なのだ。中庭に面した一つ目の分岐で足を止め、女官長に訊ねると、彼女はパティオの向こう側を暫く観察した後、答えた。
「いえ、既に自室に戻られたようです」
「何故分かる」
「女官の流れです。産室の方から参るものがほとんどおりません。それに時間も経っておりますから」
「なるほどな」
 ところで産室はどこにあるのだろう、と考えながら、彼は頷いた。立ち止まっていた彼らに気付いた者が、騒ぎ始めている。余はまったく邪魔者だな、と苦笑して王は再び歩き始めた。

 先触れが間に合ったものか、件の妃の部屋には白い花がふんだんに飾られていた。
「あなたの奥様方が、お祝いにと届けて下さったの。毒花が混ざっているかもしれませんわね」
 事実なのかそうでないのか冗談にもならない冗談を飛ばして、妃はひどく上機嫌だった。産の疲れも見せずに髪を優美な形に結い上げ、濃紫のローブを羽織ってソファに腰を下ろしている。起き上がってよいのか、と気遣いを見せた王に、当分お相手はできませんわよ、と彼女はまた冗談を飛ばした。
「それで、いかが?あの子はお眼鏡に適いまして?」
「それだ、ヴィナよ」
 と王は彼女の隣に腰を下ろし、強く抱き寄せる。
「よくやってくれた」
「あまり動かさないでくださいな、痛いの」
 と眉根を寄せて一瞬強張った女の身体からは、血でも汗でも乳でもなく、彼女が好んで使う香油の匂いがした。髪も既に洗わせたようだ。手触りもさらさらと、灯りを受けて黒く艶めき、同じ香りを放っている。洒落者よ、と内心舌を巻いた。彼が渡るという触れを聞いた後からでは、これはとても間に合わない。
「あれが太子だ。余の後継ぞ」
「まあ、お気の早いこと。まだおつむの方はどうだか分かりませんのよ、しばらくお待ちになれば?」
「いいや、余にはわかる。余はあれを待っていたのだ」
 正式な立太子は成人した後だが、既に彼は決心していた。あれほどの子供、見たことも聞いた事もない。今すぐ王太子としての待遇を与えても、不思議に思う者も反対できる者も無いだろう。こうした事は、余計な軋轢が無い形で進めるに越した事はない。誰もが納得する優れた後継を得ることは、王室の安定に直結する。それもあって、彼はああした抜きん出た子を待っていたのである。
「では、お約束を果たして頂けますわね」
 だがこう囁いたヴィナの声に、柄にもなく舞い上がっていた彼の心が引き戻された。
「約束」
「そう、約束」
「何の約束だ」
「まあ、可愛い方ね。そんなおとぼけが通じると思っていらっしゃるなんて」
 と妃が笑う。そのあでやかさによろめきそうな自分に驚き、彼は妻から目を逸らした。
「あなたが何を考えておいでか、解りますわ。後々、別の方からより後継にふさわしい子が得られた場合を懸念なさっておられるのでしょう」
 だけではない。だが可能性は低いというものの、それも大きな懸念材料だった。別に后の子が王太子でなければならぬという決まりなどないが、事実そういう事態に至れば(当の后に実子が無いというならまだしも)、パワーバランスが崩れて収拾が付かなくなるのは目に見えている。
「そのときは、その子をわたくしの子として迎えれば済むことではありませんか。あの子が王になろうとなるまいと、わたくしはどちらでも良いのだもの」
 今はそうかもしれない。今は本当に、ただ後宮の外に出たいだけなのかもしれなかった。だが、人は変わる。女は特にだ。この先、この妃がどんな怪物に化けないとも限らないではないか。
「それに陛下、申し上げましたでしょう。わたくしの立后は、少なからずあなたのお役に立つはずです」
 確かに、后を置くことで王威の高まりは期待できる。このたびの出産により、その地位にふさわしい人間はもはや彼女以外にはいなくなったということも、臣下達を黙らせるだけの功を彼女が立てたことも、事実だ。どのみち、この先誰も彼女を無視することは出来なくなるだろう。彼自身を含めてである。だが后となった彼女が彼の手に余れば、細心の注意を払って築き上げてきた彼のカリスマとしてのポジション―『中興の神王』として讃えられるその立場すら、危うくなる。
「大丈夫、あなたを煩わせるような事など何もございませんわ。わたくしを」
 卑怯な男の妻には、しないでいてくださるわね。
 恫喝に屈する彼ではない。必要ならば卑劣な真似も厭わぬし、またそのように呼ばれる事に怖れもなかった。王だからこそだ。綺麗事で務まる訳がない。だが、これは効いた。彼と彼女の経緯ゆえに、一人の男としての彼の急所を確実に突いた。
「・・・望みを叶えよう」
「本当?」
 覗き込んでくる瞳は以前より大きく潤み、澄んでいた。その黒が見せた鮮やかさに、彼は密かに目を見張る。もとより姿の綺麗な女ではあったが、そこに身体を内側から仄光らせるような何かが備わった、と感じた。
「二言は無い、安堵致せ」
 しかし急所とも美とも係わり無く、握り潰すつもりは実は最初から無かった。純粋に政治的な思惑からだ。賭けてみるだけの価値はある、と彼も考えていたのだ。
「嬉しゅうございますわ」
 微笑み、身を寄せて来られた時、ふと遠い記憶がよぎった。彼女の身体からたちのぼる香りの、華やかな中に一筋流れる苔生すような静けさが、それを呼び起こしたのかもしれない。



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