男の魔性あるいは女の無自覚 (3)

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 男は彼女と目を合わせたまま、白く塗られた彼女の爪先から手首に指を滑らせた。視線がゆっくりと下りて行く。喉、胸、腹。
「貴様を犯し、生血を啜り、肉を喰らって」
 彼は、視線を彼女の下腹部に当てたまま、背後の小さな森を顎で軽く指し示し、再び瞼を上げる。
「あそこへ捨ててやろうか」
 男は彼女の両手首を掴んだ手を緩め、鈍く光る肩に向かって滑らせた。指先が、なめらかさを楽しむように彼女の皮膚を緩やかに蛇行する。行き止まりに達し、親指が腋に触れる。ぴくりと身体を震わせる彼女の柔らかなそこに、男は僅かに指先を埋める。
「ええ?」
 低い囁きに、彼女は自分が総毛立つのを感じた。闇色の瞳は、凶暴な光を湛え始めている。
「あら、お邪魔だったかしら」
 突然、すぐ傍で甘ったるい声が響いた。


 一人分の飲み物を乗せたトレーを手に、女の母親がにこにこ笑いながら立っていた。
「ベジータちゃん、帰ってらしてたのね。待ってて頂戴ね、もう一つ作ってくるから」
 彼女は、彼らの尋常でないはずの様子を気にすることもなく―いやむしろ気付いてないのか―、テーブルに飲み物を置き、軽やかな足取りで立ち去って行こうとする。
「マ、ママ」
 女が急いで立ち上がり、母親を呼び止めた。なあに?彼女はにこやかに振り返る。
「あたし、そろそろ入るから。新しいのは要らないわ。あれ、ベジータに回すから」
「そうお?やっぱりお邪魔しちゃったかしら。ごめんなさいね」
 やあね、ママったら。そんな訳無いでしょ。女は立ち去って行く母親に向かって、はははと笑いながら、ひらひらと手を振った。
「そういうことだから。あたし戻るわ」
 母親が室内に消えるや、女は彼を振り返ってそう告げた。これ飲んどいて。テーブルにつくねてあった象牙色の大きなタオルを取って言い捨てると、足早にその場を去ってゆく。
「命拾いしたな」
 頭の後ろで手を組みながら、彼は呟いた。女の耳に届いていないことは、分かっていた。


 廊下を早足で歩いている彼女は、全身の震えを止めることが出来ないでいた。
(怖い)
『殺して』
 あのとき、そう言ってしまいそうだった。体中に甘く響いた、低い囁き。肌を滑る指の感触。着衣の中まで見透かすような視線の、刺激。
 漏れそうになる吐息を、彼女は懸命に抑えていたのだ。下りそうになる瞼を必死で持ち上げたのだ。指先から全身の力が抜け出てゆくようで、逃がすまいと肘掛を力一杯握り締めた。自分を見上げる瞳の深い黒の中に、落ちて行きそうな気がして―
(恐いやつ)
 男から遠ざかったことに少し安堵し、彼女は徐々に歩を緩める。
 魔性の―
 男。突然そんな言葉が浮かび、彼女は自分のロマンティシズムに苦笑いした。魅入られた女は、全てを捧げ、破滅の淵に沈む。爪の一片、髪の一筋、血の最後の一滴までも、その男のものになる。最後に喰うか、喰われるか。比喩ではなく、そんな関係になる。
 あいつには無理だわ。彼女は、男が食事するときの子供のような姿を一心に思い浮かべた。だがいつもなら微笑を誘うその姿も、彼が仕掛けた罠のように思えて、彼女の頬は緩まなかった。
 肝に銘じておくべきね。
 時に、普段からは想像もつかない、危険な一面を覗かせる。それを目にして、人は彼が何者であるかを思い知る。何者であったかを、思い出す。
 迂闊に近づけば命取りだ。きっと、様々な意味で。
 とここで、自分が恋人のことで不機嫌になっていた事を思い出した。よくあんな下らない事で腹など立てたものだと思い、やっと小さく笑みが零れる。
 廊下の突き当たりの、大きく切り取られた窓の前で足を止めた。午後の少しだけ柔らかくなった光に、それでも眩しく照らされる街を、目を細めてぼんやり眺めながらふと、考える。
 自分が恐れたのは、本当にあの男自身だったのか。


 背凭れから身を起こし、彼はちょっと迷っていた。
 この木陰が暑いという訳ではなかった。だが女のひんやりとした心地よい柔らかさを思い起こし、水に入りたくなったのだ。水面に、女が身体を伸ばしていたラウンジが浮かんでいる。ああして伸びていて何が面白いのだかは解らないが、泳ぐことは嫌いではなかった。
 だが、誰かに目撃される可能性が彼に二の足を踏ませていた。この自分がうきうきと遊泳しているなどと思われるのは嫌だった。たとえ相手が豚や猫でも。
 この奥庭には、普段からあまり人が近付かないようではあった。彼は周囲の気配を探る。遠ざかって行く女たちの気が感じられるだけで、他には近くに誰もいないようだった。問題無い。そう判断し、彼は椅子から立ち上がる。靴を脱ぎ、シャツを脱ぎ捨てて、水に近付いた。
 浮き上がり、足からするりと水に入る。深く潜り、しばらくゆったりと水を楽しんだ。
 中央付近の水中を漂っていたとき、ラウンジの青い透明な影が揺れているのが目に入った。その影の中に、横たわる女のシルエットを描いている自分に気付き、彼は顔を顰める。そうして、女の隅々にまで触れたその同じ水に自分は潜っているのだということに、初めて思い至った。
 浮上し、片手で顔を拭う。そんなことで少しでも行動を変更しようとしている自分がひどく忌々しく、思わず舌打ちした。
 違う。
 水に飽きただけだ。浮き上がり、プールサイドに降り立った。水分を吸った衣類が脚にはりつき、心地が悪かった。
 皮膚を伝い、口元に水が滲む。そこに溜まった水分を舌の上に移し、喉に流し込んだ。
 ただの水だ。
 だがそれは微かに甘いような気がして、彼は再び顔をしかめた。
「下品な女め」
 この際は女が下品であることは関係ないと解っていたが、彼はシャツを掴み、低くそう吐き捨てると、シャワーを使うため屋内へと歩き出す。黄味を帯び始めた陽光に濃度を増した自身の影が、目の端に映った。

2005.7.19



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