男の魔性あるいは女の無自覚 (2)

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 訳が分からない。
 夏は日焼けした方が見栄えが良い、と女が考えているらしいことは解った。だがこの女の日焼けと、色の白い女を好むヤムチャとがどう繋がるのかが理解できない。一体何のつもりでわざわざ自分の男を遠ざけるような真似をするのだろう。皮肉な笑いと共に漏れた女の台詞に、彼は考え込んだ。
「ねえ、降りてきてよ」
 ラウンジの上に半身を起こし、片肘をついて女が彼を呼ぶ。
「テーブルの上にグラスがあるでしょ。それ取って」
 この厚かましい要求に、彼はかちんと来た。考えるのを止め、声高に返す。
「自分で取れ」
「いいじゃないの、その位してくれたって」
 “その位”ならば自分でやろう、とは思わないらしい。彼はプールサイドのテーブルの側に降り立ち、その横にある木製のデッキチェアに腰を下ろした。
「ちょっと!そこまで行ったんなら取ってくれたっていいでしょ!」
 知らんな。彼は女を無視し、チェアの上に片膝を立て、そこに片腕を乗せた。
 瓢箪型のプールを囲むようにしてグリーンが植えられている。いや、鬱蒼と生い茂っているという方が当っているかもしれない。女の父親の趣味なのだろう。この家には屋内外を問わず、至る所にちょっとした森がある。彼は頭を巡らせ、背後から覆い被さるようにして葉を伸ばしている裸子植物の幹を眺めながら、木々を通り過ぎてきた心地よい風に少し目を細めた。
 ぱしゃぱしゃ、と怒ったような水音が響いた。見ると、女がラウンジから降り、胸まで水に浸かりながら近付いて来る。
「ケチなんだから」
 女はぶつぶつ言いながらプールサイドに上がってきた。湿った足音を立てながらテーブルに近付き、サングラスを手に取る。が、気が変わったのかすぐにそれを戻し、テーブルを挟んだ隣のチェアに腰を下ろした。
「気に入った?」
 いいでしょう、ここ。陽を照り返して輝いている水面を眩しそうに眺め、女が言った。
「焼くんじゃないのか」
 彼は尋ね、女を見遣った。乳房を覆った小さな布から水が滴っている。女が眉を上げて曖昧に笑い、チェアに寝そべると、雫は白い腹を滑って下腹部の共布に吸い込まれた。
「子供の頃は怖かったのよ」
 女は咽喉をのけぞらせ、背後の木々を見上げながら言った。
「夕方になると近付けなかったの。影のせいだと思うんだけど、木が笑ってるみたいに見えたのよね。それに、プールの照り返しの光がちらちらして、何かが動き回ってるみたいで余計に怖かった」
 身体を捻り、女が背後を振り返る。背凭れに圧迫され、乳房が柔らかく押しつぶされた。彼はそれからついと目を逸らし、呟く。
「かもしれんな。あの深さじゃ死体の一つや二つ転がっててもおかしくはなさそうだ」


「あら、あんたでも死体が怖いなんて思うことがあったの?」
 彼女はあきれながらそう返した。もう少しましな例えは無いものだろうかと思ったが、それはしかし幼い自分が感じた不気味さをとても上手く表現しているようにも感じられる。
 男は短く、ない、と即答した。確かに、この男のかつての生活を思えば、死体を恐れていたのでは仕事にならなかっただろう。
「どんなに強い奴でも、死ねば肉の塊だ」
「・・間違ってはないわね」
「そうだ。だが地球人は死体を恐れる」
 男は彼女の方に顔を向け、至極真面目にそう言った。
「墓場が薄気味悪いと言う。腐った肉や骨が埋まっているだけだというのにだ」
「だって、気味悪いもの」
「なぜそう思うんだ?何を恐れる?」
 漆黒の瞳は鋭く澄み、何の衒いも誇張も無い。その透明な色に、彼女は自身の奥がちりりと痛むのを覚えた。
「死ぬのが怖いと思ったことはない?」
「何?」
「死体が恐いんじゃないのよ。それは死そのものに対する恐怖だわ」
「それは生物すべてに共通する恐怖だ」
「そうじゃなくて・・」
 じれったくそう返しかけて、彼女は気付いた。説明しても無駄なのだ。何故と言って、この男には帰りたい場所も、守りたい人も、離れ難い友も、おそらくは愛する女も、何も無いのだから。かつて一度も、そうして心を繋ぎ止められた経験など無いのに違いない。きっと、そうしたものを欲しいと思ったこともない。想像したことすらないだろう。
「・・・あたしは、あんたが死んだら泣くわ。きっと」


 自分の身に何が起きたのかを理解するのに数秒掛かった。
 女が彼のチェアの縁に腰掛け、彼の上体を抱いている。
「友達にはなれそうもないけど、でも死んじゃだめよ、あんた」
 鎖骨の辺りに、女の囁きが掛かる。濡れた髪が頬に触れる。ひんやりした身体が、彼の上体に絡む。
 この訳の解らなさはどうだ。死体の話をしていて、何故突然こんなことになるのか。どこから『死ぬな』という台詞に繋がるのだろう。この女の行動は全く予想がつかない。拒む暇さえ無かった。
「離れろ」
 彼はなんだか息苦しくなって、彼女の両肩を掴んで自分から引き離した。量感のある両の乳房が、それでも胸の辺りに触れている。厚くはない布を挟んで皮膚に馴染むそれらに、彼は思わず目を落とす。
「―あんた、エッチなこと考えたんじゃないでしょうね」
 途端、彼の視線を辿って自分の乳房を見遣り、急いで身体を離しながら、女がとんでもない暴言を吐いた。
「何だと?」
 自分がしがみついてきたんだろうが。彼はそう言おうとするのだが、唖然とする余りうまく言葉にならない。口をぱくぱくさせるその様子を見て、彼女は勢い付く。
「ふうん・・あたしってやっぱり魅力的?」
 あんたみたいな奴から見ても。そう言って女はデッキチェアの肘掛に両手をつき、覆い被さるようにして再び彼に近付いた。その頬に、挑発するような笑みが浮かんでいる。彼をからかっているつもりでいるのだ。
 相手を間違えるな。
「―そうだな。貴様は美味そうだ」
 女の目が大きく開かれる。彼は再びペースを取り戻した。



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