地平(3)

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 ベジータ。
 
 彼の一撃に気を失い、地に倒れゆく子供の髪が藤色に戻る。さらりと風に靡くそれをみつめる彼の耳の奥、しっとりと温かな塊を含んで女が彼を呼んだ。
 泣くだろう。
 だが、きっと永久に枯れない。泣くだけ泣いたら、また力強く芽吹くのだ。彼の気に入りだった鼻っ柱の強さも、彼をいつも困惑させた下品で溌剌とした言動も、きっとそのままに。そしてまた、かつて彼とそうしたように、彼の知らない誰かと共に暮らす日が来るのだろう。
 彼らは出会い、今別れてゆく。
 異星での邂逅。溺れ、息詰まるほど求め合った日々。傷付け合った諍い。何千回と交わした睦言、くちづけ、抱擁。この今に、彼らのすべては集約する。すべてが紐解かれ、彼の中を走り抜けてゆく。
 もっと名前を呼べばよかった。
 一瞬そう思ったが、すぐに目の前の敵に意識を向けた。再び差し向かいになった戦場で、彼は終局に向けて助走する。自身の全ての掛金を外す。
 思えば、夢のようだった。
 強さを求め、頂を目指して命一杯駆けた。確かなものを手にしようと、もがき続けた一生だった。彼が絶対だと信じたもののすべてが、幻のように失せていったけれど―
 決着を付けたかった。
 同胞との短い再会を思った。誰にとっても特別な男。誰の事も特別ではない男。詮無い事だと微かに笑う。一度はすべてと引き換えにしたその男との闘いを思い切り、彼は戻って来た。そして結局、最も不確かでそれこそが幻だと思い続けてきたものを、選び取ろうとしている。
 さらば。
 彼は最後の掛金を外し、決して後戻り出来ない場所へと踏み出した。爆音が地を揺るがし、天に轟く。己の咆哮が鼓膜をびりびり震わせる。
 身体を反らせ、両腕を広げた―左は自由が利かなかったが。敵への打撃を能う限り大きくしたかった。もっと強く。もっと遠くへ。二度と復活せぬように。かれらを、二度と脅かさぬように。
 身体が燃えようとしている。内側から炭化し、灰になってゆく。熱は既に感じなかった。細胞の一つひとつが爆(は)ぜ、崩壊して行く激烈な痛みが体中を走る。
 さらば。
 頭の中で、視神経がばちばちと音を立てて焼き切れてゆく。燃え尽きようとする視野に、高く光る青が映った。その瞬間―痛覚を失ったのだろう―激痛が嘘のように失せる。狭い空が白濁し、そこに浮かぶ小さな雲を溶かすように呑み込んだ。

 さらば―

 小さな、白い雲だった。


2006.5.6



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