地平(1)

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 頭上遠く、空が青く輝いている。
 彩度の高い明るい色は、絶望的なこの状況に似つかわしいとは言えないのだろう。子供のような姿をした敵の想像を絶する強さは、彼の採るべき道を一つに絞り込んだ。
 だが、違和感は無かった。
(随分長かったな)
 地平は遂に、その姿を現したのだ。彼は静けさに満ちていた。深く澄み、奥底まで透明だった。

 ずっと霧の中で生きてきたのだ、と思う。
 昔は、何もかもが単純だった。どんな時であろうとも、自分が誰で、何のために生き、どうしたいのかが明確だったのだ。だがカカロットを失って後のこの7年間は、何もかもが薄ぼんやりと、不明瞭だった。
 自分が何故この星に留まり続けているのか。それすら判然としなかったものだ。
 何か理由を見つけるとするならば、状況を変えるだけの差し迫った事情が無かったから、と言ったところだった。自分を鍛え上げる事の他に、特にやらねばならないこともない。行きたい場所があるわけでもない。だが彼は、自分の状態に戸惑わずにはいられなかった。これまでそんな消極的な理由で行動した経験が無かったからだ。そうして戸惑いつつも留まり続けたこの場所は、生温かく満ち足り、ゆるやかに彼を崩してゆく。女と営む、騒がしく穏やかな生活。かつて常に間近にあった死の感触は、日々の中で遠退き、薄れて行った。
 彼はただ、傍観していた。
 そうやってゆるゆると流されてゆく自分を拒絶する事も、と言ってはっきり受け入れる事もできないまま。全てに、まるで実感が無かった。
 いつでも壊せる。いつでも、変えられる。
 だから今はこれでいい。彼はそう考えて自分を納得させていた。だがあるとき気付いたのだ。傍らで眠る女を殺せなくなっている事に。口を開けば無礼でやかましい、非力な女一人だった。彼がほんの少し指先に力を込めれば、ほんの一瞬気遣うのを止めれば亡骸になる。それなのに。ショックだった。自己という存在そのものを揺るがす程の大きな衝撃だったと言っていい。完全に「してやられた」のだ、と思った。一下級戦士とその子供に完敗し、次は女だ。
 目も当てられん。
 それでも彼は、この酷い現実を破壊する事は出来なかったのだ。時に現なのかすら定かでなくなるこの温(ぬる)やかな生活を、次第に悪くないとさえ思うようになっていた。
 認めざるを得なかった。彼女が必要なのだ。己の存在に付随するものとして。
 だが、それは正確ではなかった。

 彼は覚悟していた。
 己の引き起こした事態は己で収拾せねばならない。彼が長くはない生涯の中で初めて感じた、『任務』におけるそれとは次元の違う「責任」だった。誰に対するそれなのか明瞭ではなかったが、ただ間違いなく彼のプライドではある。
 そして最期の最後というこの今になって、霧は晴れたのだった。
 澄み渡った空気の中、彼は遂に心の地平を目にした。初めて、自分が何を高きに置いているかを知った。何が一番耐え難い事かを、理解した。
 己の存在も生死も、そこには介在しなかった。自身はこの世から失せ、彼らに触れる事はもう、二度と無い。
 回り道をしてきたのかもしれない、と思う。視界を遮る全てが失せた今なら、道はまっすぐに繋がっていたのだと分かる。最初からそれを見出す事が出来たなら、もっと―
「抱かせてくれ」 
 



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