突然差し伸べられた右腕に戸惑い、トランクスが僅かに後退さったが、彼は構わず抱き寄せた。一瞬、身体を硬くして抵抗する風を見せる。だが子供はすぐに恥ずかしそうな、どこかくすぐったそうな表情を浮かべて身体を預けてきた。
黄金の髪に指を入れる。常ならば、その母親と同様さらさらと流れるような感触が手袋越しに伝わったのだろう。天に向かって波打つ炎を思わせる髪の、それ自体意思を持つかのようなうねりを指に感じながら、彼は大切なものに半分しか触れないままそれを手放してしまうような、微かな口惜しさを覚えた。
丸い頭蓋を掌に、幼い目鼻の凹凸を腹に感じながら、ふと心動く。
ついこの間まで、母親に抱かれて指を咥えていた気がするのに。
『アパ(パパ)!』
幼児特有の頓狂な声で叫び、頼りない足取りで転がるように彼の後を追い回していたのは、つい昨日の事だったという気がする。靴紐をしゃぶって彼のシューズを台無しにしてしまったのも、中庭のジューンベリーに登って実を食い尽くし、降りられなくなって泣いていたのも、芝生で昼寝する彼の腹に大きな毛虫を乗せて悪戯したのも―
大きくなったな。
知らず、表情が和らいだ。彼はそうして、幼児を見下ろす彼女の優しい眼差しを―彼を幾度も途方に暮れさせた伏目の、長い睫毛を思い起こす。
『駄目よトランクス。パパはにょろにょろが大嫌いなんだから』
『へんなの』
『じゃあママ、今夜あんたのベッドにチャッキー人形を入れちゃおうかなあ』
『やだ!』
『ぼくチャッキー。トランクス、あそぼうよ〜ヒヒヒヒヒ』
『やだよう!やめて!』
『わかるでしょう、遊びにもマナーがあるのよ』
『チャッキーこわい・・』
『大丈夫よ、チャッキーが来てもパパがやっつけてくれるんだから』
『ほんと?』
『言ったでしょう、パパはとびきり強い男なのよ』
パパがいれば大丈夫。相手がどんなバケモノでも、絶対あんたを守ってくれるわ。
息子を抱き上げ、そう言って彼に笑い掛けた女が、陽光の中で輝く。
『勝手な事を』
彼は鼻を鳴らし、そっぽを向いて呟く。
『思い違いも甚だしい』
目を逸らしたまま低く漏らした彼の頬を、女の視線がふわりと愛撫した。
何がおかしい。
だが視線を戻して彼女を睨む事は出来なかった。
眩しい。
彼はそう感じて背を向け、彼らを視野の外に追い遣った。
もう、あのきらめきに目を細める事はない。
柔らかな身体に沈む事も、温かな香りに浸ることもない。彼女を感じる日はもう、二度と来ない。
ママを、大切にしろ。
その意味を知るにはまだ幼いだろう。だがやむを得ない事だ。彼は想いを流し込むように、ゆっくりと微かに、指先に力を込める。
足掻いていたのだ。奥底で。
変わってゆく自分を恐れて。女の胸に抱かれ、どうしようもなく溶けて行く自分を恐れて。今、腕の中の子供を、その小さな命を痺れるほどに貴いと感じている自分に、恐怖して。
何がそんなに恐いというんだ。
彼は己の怯懦を嗤ってひっそりと唇を歪める。変わりたくないと恐れるほど完成していたとでもいうのか。己の心さえ自由にはならなかった自分が。己を解放するために、己を売り渡さなければならなかった自分が。
「元気でな」
彼は祈った。生まれて初めて。心の底から。そしてその名を声にする。そっと大事に。ささやくように。
「トランクス」