薔薇の追憶 (8)

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『聞こし召しておられまするな』
『・・・ふん』
 門前で待ち構えていた侍従の言葉に、父は微かに眉をしかめた。頬や首、藍色の夜着の肌蹴た胸元に引掻き傷のようなものが見える。後宮から現れる朝にはよくある事だった。
『てこずらせおる』
 幾分酔いが残っているのか、開いた門を飾る金属の曲線に片肘を預けて寄り掛かる。そこにも傷があるのだろう、下唇に薄く血が滲んでいた。父は緩慢な動作でその場所に手をやり、ゆっくりと親指で拭う。門の両脇を固める番人の若い方の一人が、その姿を盗み見てうっすらと頬を赤らめた。
『御寝所から、そのまま奥へお出ましだったのですか』
 侍従は、自らが従えてきた若い兵士が捧げ持つ緋布をちらりと顧み、控え目な非難を込めて王を見遣った。
『妻の顔を見に行くのにいちいち正装致せと申すか』
『王章とマントをお忘れになっておられました。奥へお渡りの際にも御身から離されぬほうが良いかと思いますが』
 それらは王権を象徴するものだった。盗まれたら何とするのだ、という意味なのだろう。その言葉に、父は瞼をゆるく伏せて薄暗い笑みを浮かべる。
『奥へ持ち込めば尚危険かもしれぬぞ』
『・・・では近侍になり一言掛けて下さりませ。寝台に放り出しておかれますのは、いささか御用心に欠けまする』
 長い夜着の裾が割れ、隆とした脹脛(ふくらはぎ)が覗く。そこにある新しい裂傷は―鋭利な何かで切ったようなそれは、既に治癒が進んでいるようだった。
『少し大きゅうございますな。手当てなさいませ。お跡が残ってはいけません』
『放っておけば消える』
 じっと視線を当てるという非礼は避けつつ深刻そうに進言する侍従に、王は煩わしそうに吐き捨てる。
『しかし・・』
『それよりどうした、何故王子を伴っておるのだ』
 父は侍従の足元でふんぞり返る小さな息子に気付き、眉根を開いた。
『そなたがこのような早朝に目覚めていようとはな』
『昨夕は早くおやすみになられたようで、今朝は暗いうちから起き出してこられまして。陛下にお会いになりたかったのでしょう、私共に御同道なさるのだとおっしゃられて、聞き分けて頂けませず・・』
『てこずった訳か、お前も』
『いいえ、わたくしよりも、彼が』
 侍従は二、三歩退き、背後にかしこまって控える男の姿を王に見せる。
『そなたか。難儀を掛けた』
 王子である彼の教育を任とするその側近に、父は労いの言葉を掛けた。
『いえ、畏れ入りま・・』 
『ちちうえ、これはなんのにおいなのだ』
『殿下!』
 王の纏うガウンの裾をくんくん嗅ぎ回す彼を捕まえ、教育係が小言を垂れる。
『動物の真似は慎まれますようにと何度申し上げましたか』
 やがては彼が一族の神となる事を信じて疑わないその男は、次代の王たる力と共に、貴族的な洗練をも彼に強いてくる。男はまた、恐ろしくすばしこいはずの彼を取り押さえる名人だった。その朝も、王宮を抜け出して機嫌よく散策していた彼を捕獲し、連れ戻してきたばかりだったのだ。
『うるさいやつだな。じゃあどうするんだ』
『このように』
 男は低く跪き、彼の小さなマントの裾を恭しく持ち上げると、頭を垂れてそれにすっとくちづけるような仕草を見せた。
『きさまはバカか、それでなにがわかるというんだ』
『その愚か者にでも難しくない事が出来ぬと仰せですか、あなた様は』
『なんだと!』
『鍛錬なさいませ。一瞬で、その香りが放つ情報を全て読み取るのです。あのように品の無いなさりようは許されませぬぞ』
『できるものか』
『高貴の方なら造作もないこと。あなたは王陛下の御子ではないのですか。ああそれから、御自身より身分低きものにこうしたお振る舞いをなさってはいけませんよ。そうそうもう一つ、「匂い」ではなく「香り」と仰いませ。位高き方に対してふさわしい言葉とは申せません』
『・・・きさまは「いけません」ばかりだ』
『ええそうですとも、あなたさまが一人前になられるまでは、この口からは小言以外漏れて参りますまいよ。ところでさっきから気になっていたのですが、お体から硫黄の匂いが致しますな』
『イオウの「かおり」だろう』
『屁理屈は結構です。またガラシ火山に行っておられましたのでしょう。あなたさまにお会いしたのはちょうど王宮とガラシの直線上にある場所でございましたよ』
『ふん』
『殿下、何度申し上げたら御理解頂けるのです?あれはただの火山ではないのですよ。そこここで猛毒ガスが噴き出していて、僅かな吸引で死に至ります。あなたさまは確かにお強いが、そんな事は関係ないのです。ましてその小さなお体では致死量は一層少ないはず』
『おれはそんなにマヌケじゃない。そのへんのクズといっしょにするとゆるさんぞ!』
『「屑」ではなく「つまらぬ人間」と仰いませ!特別な方だからこうして口を酸っぱくして申し上げているのでしょうが!』
『そのあたりでよい』
 そなたらの遣り合いで、いちいち王子に城を破壊されたのではたまらぬ。よく響く王の低い声に、言い争いが止まる。
『王子、何故ガラシへ行く?』
『ながめがいい。火やけむりがふきあがっていて好きだ』
『なるほど。それだけか』
『そうだ』
『ではもう行くな』
『・・なぜだ』
『大事な身体だ。それ以外の理由はない』
『・・・・』
『不満か?だが万一は許されぬ。そなたは利発だが、子供には違いないのだ』
『おとなになったらいってもいいのか』
『好きにするがよい。王となった暁には、そなたは全てを自由に出来る。だが忘れるな。そのときにはもう、そなたを導くものは誰もおらぬ』
 小さな彼には、その言葉の全てを咀嚼することは出来なかった。
 父の裾から、異世界の香りが漂う。だがそれは奇妙になつかしく感じられ、彼は少し混乱していた。


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