薔薇の追憶 (7)

 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next

 建物の最上階、両開きの扉の奥は、赤い垂れ絹で幾重にも帳されていた。
「この奥です。ここから先へは私は踏み込めません。どうぞお一人で」
「何故だ」
「これより先は、お客様と娼との聖域です。彼女が今宵紡ぎ出すのは、いわばあなたさまの心の世界」
「心?」
「娼にも色々あろうと思いますが、優れたそれと申しますのは肉の快美だけを売るものではございません」
「御大層な事だ」
 腕組みを解き、鼻を鳴らしたベジータに、ルブは流線型の花弁を模った銀色の小皿を手渡した。ちょうど掌を差し出したような深さに窪んでおり、琥珀色の液体が溜っている。ルブがその傍でぱちりと指を鳴らすと、小さな池の中央に、爪ほどの大きさの金色の火が飛び出した。
「部屋は、最初暗うございます。お足下を誘導する小さな灯りがある程度です。いくつも燭台が用意してございますので、これを分けて明るさを調節なさって下さい。この皿ごと近付けましたらば火が移る仕掛けになっております」
「そんな事を客にやらせるのか」
「興の一つでございます。むろん、ヴァイオラにお命じ下さっても結構ですよ」
 ルブはそれだけ言うと胸の前で両手を重ね、腰を折って彼を見送る体勢に入った。
「どうぞ充実した一夜を」
「俺はすぐ帰る」
「ええ」
 御随意に。腰を折ったまま、ルブは静かに促す。最初の帳を潜った彼の背後で、扉の閉まる気配がした。 

 最後の帳は、たよりない薄布だった。床から天井まで届く大窓から差し込む月光の柱の中、部屋の中央付近に跪き、顔を俯けて敬礼する女の姿が向こう側に透けて見える。ベジータは、腕を伸ばして明りを遠ざけ、薄布の内から彼女をじろじろと観察した。
 黒い着衣から剥き出しになった肩や腕には色素というものが感じられず、少女のようにすんなりしていた。顔は伏せられていて見えなかったが、髪はやはり真っ白で、先程の童女と同様、肩の辺りで切り揃えてあるようだった。彼が用心すべきものは今のところ見当たらない。ベジータは薄い帳の中央にある切れ目に片手を差し入れ、中へと足を踏み入れる。
 香が焚き染めてあるのだろう、部屋に入るとその香りが強くなった。何故だかふとゆかしい気分になり、歩を止める。
 この香りを知っている。
 何であったか俄には思い出せない。すぐそこまで浮上している気はするのだが―
「顔を上げろ」
 女に対して発した第一声は存外大きく響き、その場が随分と静かなのだと彼は気付いた。
「まあ」
 表を上げ、彼の姿を見た途端、女は目を見開いて声を上げ、それからころころと笑い出した。
「なにがおかしい」
 唐突で幾分礼を欠く挨拶に、むっとするよりも先に呆れたが、何よりも驚きが勝った。大きな目のすぐ上で前髪が切り揃えられた、その顔。
 こいつは・・・
 そこそこ年増を想像していたのだが、また随分と若い。生来の容貌が輪を掛けているのかもしれないが、これでは父王の相手を務めていたという頃は、今の彼よりもっと年若かったのではあるまいか。
「あの変態親父」
「え?何でしょう」
 女は笑うのを止め、彼の低い呟きに耳聡く首を傾げる。素直な切り下げ髪が肩に掛かり、ゆったりと豊かに撓んだ。
「いい。それより何故笑った」
「申し訳ありません、あまりに王陛下に似ておいでだったものですから」
 言いながら、女はまた吹き出す。
「額髪を上げられたら、きっと生き写しですわ」
 ああ、懐かしいこと。嬉しそうに破顔したまま目尻を拭う女の言葉に、彼は今しがた尋ねようとしていた事について思い出した。
「この香料は何だ」
「香油でございますか。ノリラと申します。惑星スーに咲く赤い花から精製されるのだとか」
「ノリラ・・」
 彼は記憶を辿ったが、その名に覚えが無かった。
「お懐かしいでしょう」
「―何故そう思う」
「あら、サイヤの後宮で用いられたものですもの。御記憶にございませんか」
「・・ああ・・・」
 彼は得心の呟きを漏らした。王宮に於いて、彼が自由に出入りできなかった唯一の場所。そこへ続く扉の向こうから、この香りが漂っていた。あるいはそこから戻った父の身体から。
「王陛下に賜ったのです。これでお出迎えするようにという意味だと思って、最初そのように致しましたら、お前は男というものが解っていないと笑っておられました」
 今宵はあなた様がお越し下さるので、これでお迎え申し上げようと思ったのです。お気に召して頂けると良いのですが。微笑んだ女のさまには、先程までとはまた違う臈長けた色が漂っている。


 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next