薔薇の追憶 (6)

 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next

 ベジータは相変わらず押し黙ったまま、少し俯き加減で何やら考え込んでいる風だった。
 本当は、彼は気を悪くしている訳ではないだろうと思うのだ。彼女にはここ数年、それが仲間達や息子の言う『気』と同じものなのかどうかは解らなかったが、彼の身体から発せられるエネルギーのようなものが感じられる事があった。びりびりと険のようなものが込められている時もあったが、大抵の場合それは落ち着いていて、時には、どうしようもなく彼女を引き寄せる何かを含んでいる事もある。彼は今、とても安定しているように思われた。
(なにさ、人がせっかく・・)
 だがその表情は謎めいて見え、彼女を不安にさせる。こと彼に関しては、自分に都合よく進まないのだという事は重々承知していたが―
 この色―
 ぬるい水面を埋める黒々と赤いカンツォーネに目を遣り、彼女はひっそりと眉を顰めた。血を思わせるその薔薇の深い色合は、彼の凄惨な戦いの記憶をわざわざ呼び覚ましてしまったかもしれない。
 やだ。
 思わず自分の肩を抱き、身震いした。彼女の知らない彼の過去、彼の一面。紛う事なき彼の一部。武道会場で幾人もの人々を殺したベジータが脳裏をフラッシュする。それは彼女にとって、その後の喪失に直結する記憶だった。
 いやだ。
 戦いが終わって彼が戻って来ても、その死は彼女の中で精神的外傷になって残っていた。ふとした拍子に、顔を覗かせる。そんな事はないのだと何度自分に言い聞かせても、どこかで考えてしまうのだ。
 また失うのではないか。
 直後は、繰り返し夢に見た。外出中に突然極度の不安に襲われ、何もかも放っぽり出して転がるように帰宅し、彼の姿を探して家中駆けずり回った事もある。稼動している重力室の電源を無断で落とし、中へ飛び込んで怒らせた事もあった。ひと月ふた月と経つ内に、段々とそうした問題行動の頻度は落ちて行ったが、あれから一年以上が過ぎた今でも不安がすっかり払拭されたという訳ではない。今のように、何か思いに沈むふうな表情を目にしたときなど、透けて見えるような気がしてしまうのだ。一度は、彼女から彼を奪い去った闇が。錯覚なのだと分かっている。あの時彼の感情の噴出を誘発したものは、二度と出来(しゅったい)する事はない。だが不安になるのは治癒し切らない病のようなもので、自分でもどうしようもなかった。
 彼女にとって意外なことだったのだが、彼はその事で不平を言った事はほとんど無かった。真夜中、隣で眠っていた女の悲鳴で叩き起こされて泣き喚かれようと、シャワーの最中に押し入って来られようと、ベジータは黙って―時々深々と溜息を吐いてはいたが―彼女のやる事を受け入れていた。彼にとっては、彼女の仕事やトランクスの勉強よりもずっと重要な事であるらしいトレーニングを中断させられた時には、さすがに声を荒げていたものの、それでも彼女を部屋から追い出そうとはしなかった。


 ブルマが近付いてくる静かな水音に、彼は現実に引き戻された。厚かましさを絵に描いたような女の、常にはない遠慮がちな所作に興味をそそられて顔を上げる。
「――」
 すぐ傍まで来ていたブルマの顔には、少しつついただけで泣き出しそうな気配があった。
(さあ、今度は一体何が始まるんだ?)
 俺が何かやったのか?そろりと防御の体勢を取りつつ忙しく頭を働かせ、今夜の彼らの顔合わせから今に至る出来事を思い返してみる。だが彼女の落涙に繋がりそうな事など何一つ思い当たらない。先程のちょっとした口論など小競り合いの類にも入らないだろう。
「ベジータ」
「・・何だ」
「・・・ごめんね」
「―は?」
「今度はピンクか白にするから」
「なに?」
「悪かったわ、思い出させて」
「なな、なんだと」
 やはり、思考を読まれているのか。赤い花をざばりと撥ね退けて首根っこに取り付く彼女を横目で見遣り、彼は思わずぞっと身体を強張らせる。
「どんなあんたでも大好きよ」
「――」
「いなくならないでね」
「・・・・・」
 宇宙を飛び回る間に、彼は実に様々な種族を目にしていた。そういった類の能力を持つ人類に遭遇した事もある。彼は半分本気で戦慄を覚えたのだが、くすんと鼻を鳴らし、ぴったりと彼に沿うその姿は、一年前の彼女自身を想起させるものだった。
(ああ、あれか)
 女が何を言っているのかは分からないが、どうも脳の中を覗かれた訳では無いようだ。ほっと緊張が解け、筋肉が弛緩したが、彼女に悟られないように徐々に力を抜く。
(あの時は随分振り回されたな)
 あの頃の彼女は、時と場所を選ばず彼に抱きついたり泣き喚いたり、とにかく不安定だった。彼は地球人の精神の脆さにうんざりしたが、件の戦いで己のそれが完璧ではないと知らしめてしまった以上、その事で彼女にどうこう言うのも筋違いな話だという気がしたので、口を噤まざるを得なかった。
 最初どう対処すればいいのか分からず、彼は女のやる事をそのまま受け入れていた。だがそれが幸いしたらしい。彼女は彼にじっと触れていると、次第に落ち着いてくるのだ。要するに、彼がまた自分の手の届かない所に行ってしまうのではないかと不安がっているのだから、彼は彼女が触れる事の出来る場所に居るのだと実感させてやればいい、という事なのだろう。背を抱いたりそっと撫でてやったりして彼の方からも触れてやると、彼女はより早く落ち着きを取り戻した。そうやって辛抱強くされるがままになっていると、彼女は徐々に元に戻り、三、四ヶ月もするとそうした行動についての問題はすっかり消えたように思われた。
(また思い出したのか)
 だが火種は、彼女の中に燻ぶり続けているのかもしれない。あの頃彼女から感じた深刻な恐怖は無いように思うが、症状的によく似ている。
 片腕を回し、女の背を支えた。我ながら流麗ではないと思わざるを得ない不器用な仕草で、滑らかな背をそろそろとさする。首筋に安堵したような溜息を落とし、力を抜いた彼女の肌が、湯の中で溶けるように彼に馴染んだ。


 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next