薔薇の追憶 (36)

 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next

 老爺はのろのろとデキャンタを持ち上げ、空になった自分のグラスにフェルナンドを注ぎます。彼の言葉は段々と途切れがちに、替わりに沈黙する時間が長くなってきておりました。
『彼我の力量を測れなかった末の愚行だ。かの王の最期について、事情を知る者の中にはそう囁く者も多いが―』
 軽く息を溜め、考えてもごらんなさい、とそれを吐き出しながら老爺が私に向き直りました。
『既にあの頃には、フリーザが彼らを目障りだと感じ始めていた事は間違いないのだ。サイヤ人は、彼のような人間にすら、手の中で飼い続けるには危険だと思わせる存在に成長していたのですよ。皮肉な事に、その成長の契機となったのは他でも無い、フリーザ自身ですがね』
 王が行動を起こさなかったならば、フリーザが先んじていたでしょうよ。他に途が残されていなかったのではありますまいか、と彼はごく静かに申しました。それから小さな手指を胸の前で付き合わせ、これはあくまで私見ですが、と続けます。
『成長―というより進化か、そのスピードこそがサイヤ人最大の武器です。王はフリーザに飴を舐(ねぶ)らせて懐柔しながら、一方であらゆる手段を講じてこの武器を駆使し、究極の進化とでも言うべき結果を待っていたのではありますまいか。かの惑星に於ける医学をはじめとした爆発的な科学の発展は、彼のそうした思惑を反映したものではなかっただろうかと私は思うのです』
 殿下、老爺の話のどこからどこまでが真実でありましたのか、わたくしには推し量ることすら難しいことでございます。けれど彼の申す通りであったならば、陛下は一体どのような思いであなたさまを―希望の結晶ともいうべきあなたさまを手放されたことでございましょう。その御心中に思いを馳せますと、今でも涙が零れてまいるのでございます。
『お嬢さん。正直申し上げて、私はサイヤ人という人種を好きにはなれませんでした』
『・・そうした方は少なからずおられるようです』
『そうですとも』
 憎々しげに呟き、老爺はお酒に口をつけます。彼はそのまましばらく沈黙しておりましたが、また鉛を吐き出すような重い溜息を吐きました。
『だがかの王が、その生涯死力を尽くして戦った事は間違いない。最後は廃棄物と共に投げ捨てられて終わろうとも、彼を愚かだと嗤える者などいはしないのだ。彼らの不運は、フリーザに遭遇してしまった事だった。それ無しには、あれだけの富貴と繁栄を同族達にもたらす事はできなかったかもしれません。ですがそれが無かったならば、かれらが滅びる事もまた無かったのかもしれない。そうなったらなったで、それは我々の不幸だが』
『王后様は、どうなさったのでしょう』
『うん?』
『陛下と共に御最期を迎えられたのでしょうか』
 だとすれば何とお羨ましい事だろう、とどうしようもない思いを抱きながら、わたくしは老爺にそう訊ねておりました。
『さあ、彼女が最後の出陣に同行したかどうかは判っていません。あれだけ華やかな女性が混ざっていたなら、そういう話が漏れ聞こえてきても良さそうですがね。或いは男女の別が判るほど綺麗には残っていなかったのかもしれませんな』
『・・・御遺体が?』
『ええ、そうです』
 頭に浮かんだ情景の恐ろしさに、気が遠くなりかけました。ドレスの膝を握り締めてどうにか持ち直したわたくしに、老爺は追い討ちを掛けるように申します。
『それが彼らなのですよ、お嬢さん。それがフリーザであり、サイヤ人なのです。甚振り、嬲り、跡形残さず消し去るのがね。そんな人間など最初から居なかったかのように』
『嘘、陛下がそんな』
『あなたがどういうお方なのか想像は付きますよ。だからお嬢さん、思い出を美しく残しておきたいのなら、彼らについてはもうこれ以上聞かぬ事です。誰からもね。彼らは巨大隕石が母星に衝突するという不幸に遭い、滅びた。それで終わりにしておくことだ』
『わたくしは、真実を・・』
『知ったでしょう?噂と想像も混ざってはいますがね、少なくとも事実を曲げてお伝えしてはいませんよ。もう十分だ、これ以上御自分を痛めつけることはありません。それにこの話に首を突っ込みすぎるのは危険なのだ』
 老爺は立ち上がり、窮屈な椅子に腰を下ろして項垂れているわたくしの手を取りました。
『お帰りなさい、あなたの場所へ。そして彼が思い出になってしまうまで、ここへ来てはいけませんよ』
 座ったままの私の顔を見上げ、老爺はそう囁くと初めて黒眼鏡を取りました。どういう事なのでしょう、裸電球がすぐ上にぶら下がっておりますのに、その黒々と塗りつぶしたような目には光が一切ありません。ひどく不気味に思われて身を硬くした瞬間です、それが金色に光りました。
『眠りなさい、お嬢さん。たとえ安らかではなくとも』
 別れの挨拶すらできないまま強烈な眠気に襲われ、わたくしはくずおれたのでございます。誰かが背後から抱き止めてくれましたが、それがグラムだったのかは判りません。目覚めた時には自分のベッドにいて、枕元に腰を下ろしたルブに髪をくしけずられておりました。
『おはよう。気分はいかが』
 光滴る部屋の中で、美を凝縮したような彼が優しく微笑みを浮かべ、わたくしの額に唇でそっと触れました。長く豊かな白髪が背を滑り、身に纏う白絹と擦れ合ってさらさら音を立てます。苔生す朝の森のような香りが彼の胸元から漂い、ああ戻って来たのだ、とわたくしは痺れるような安堵を覚えました。
『夢を見ました』
『どんな夢?』
『幼いわたくしが、あなたと手を取り合って館のお庭を散歩しているの』
 その夢の中の彼の容姿と、目の前のそれとはまるで変わっておりませんでした。わたくしたちが姿を変えてゆく間、彼はずっと若いままです。
『ねえ、ルブ』
『何です?』
『あなた、一体おいくつ?』
『おやおや、何をお訊ねかと思ったら』
 ルブはそう言って笑うと、どんなに高貴な人であろうとこれほど優美には振舞えまい、と思われるほどしなやかな挙措で立ち上がり、背後にあった銀色のワゴンをベッドの傍に移しました。
『一緒にお茶を頂こうと思ってね、お持ちしたのですよ。そろそろお目覚めだろうと』
 銀の盆には、陛下が亡くなってから一度も口にしていなかった白茶の支度が整えられていました。下の応接で殿下にも召し上がって頂いたでしょうか、あれでございます。
『わたくし、どのくらい眠っていたのですか』
 訊ねつつ、身を起こそうとわたくしが頭を持ち上げると、ルブは背に腕を添えて手伝ってくれました。手足にはあまり力の入らないままでしたけれど、身体は不思議に軽いのです。まるで臓腑を何かで洗い清められたようでございました。
『一晩だけですよ。けれどあの爺様のプレゼントだ、さぞ疲れが取れたでしょう』
『あの方は・・・』
『色々面白い力を持っていますね。若い頃には傷を治す能力なども披露してくれた事がありましたよ』
『・・若い頃・・・あなたが?それともあの方が?』
『ふふ、それだけ頭がハッキリしてきたのなら、もうお茶の招待を断ったりはなさいませんね』
『はぐらかさないで、たまにはちゃんと答えてくださいな』
『さあおいしいお茶が入りましたよ、私の可愛い赤さん』
『まあ、ひどい』
 彼がどれほどの時を生きてきたのか、今でも存じません。同じような白い髪と肌を持っていますから、あるいはわたくしと同じ星の生まれの人なのかもしれません。もちろんそう訊ねた事もありましたが、ルブは自分やわたくしの生い立ちなどの話になると、いつもこんな調子でわたくしをはぐらかし、まともに取り合ってはくれませんでした。
『わたくし、娼に戻ろうと思います』
『なんですって』
 けれどその彼も、この時は驚きを隠せませんでした。
『御自分が何を仰っているか、分かっておられるのか』
 それでも優雅な動きでカップと受け皿を銀盆に戻し、ルブはわたくしを覗き込むようにして申します。
『それしか出来ませんもの、わたくしには』
『聞きなさい、あなたは何も解っておいでではないのだ。あなたほど幸運な人など、他にいないのですよ。あれほどの方に咲かせて頂き、引かせていただいた上に十分なものを頂戴しているではないですか。意に染まぬ方に身体を開く必要もなく、無理に笑う必要すらありはしない。今までも、これからもです。どうして陛下が下さったものを大切になさろうと思われないのですか』
『それをお聞きあそばしたら、陛下はきっとお嗤いになるわね』
 手にした飲み物に視線を落として呟くと、彼はそっと溜息を吐きました。
『わたくし、陛下に軽蔑されたくはないの』
『解りますよ、あなたの仰りたい事は』
『陛下はずっと命懸けで生きておられたのだもの。あの方の傍にいたければ、ちっぽけでもそうやって命を賭して生きるしかないのだわ』
『陛下は亡くなったのですよ。それにあなたの仰るようになさるとしてもだ、娼に戻る必要はないでしょう?私は娘たちに最高の教育を施してきたつもりですよ。もちろん、あなたにもね』
『最高の花として開くために、どんな高貴の方の前でも怯まなくて済むように、でしょう?そうね、この上なく大切に育てていただきました。両親がどんな人々だったのかわたくしは知らないけれど、きっと本当のお父様やお母様にも負けないくらい』
『そうですとも、あなたはどんな貴婦人にだって劣りはしない』
『そのあなたの薫陶を、無駄にはしたくないの』
『ヴァイオラ』
『陛下に頂いたお教えを、無駄にしたくはないのです。わたくし、殿方をおもてなしするのってきっと嫌いじゃないわ。陛下がそれを教えてくださったのよ。どうすれば喜んで頂けるかしら、と考えるのは苦しくもありました。失敗したら嫌われてしまうのじゃないかしら、もう来て下さらなくなったらどうしようと。でも喜んで下さったときは、もう嬉しくて』
『そうでしょう、お慕いする方の喜ぶ顔が嬉しくない人などいませんよ。でも娼がお相手するのは』
『そう思うのなら、何故あなたは娘達を育てておいでなの』
『・・・・・』
『ごめんなさい、つまらない事を言ったわ。でもこれがわたくしの選んだ道なの。分かってください』
『ヴァイオラ・・』
『心配なさらないで、後悔はしません。わたくし、きっとこの星一の娼になってみせますわ』


 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next