薔薇の追憶 (35)

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 トランクスは甘やかされ過ぎている、と彼は常々思っていたし、現にブルマや彼女の父母に対してそう口に出してもきた。だが彼女に言わせれば、
「あんたの子供時代が不幸過ぎただけだわよ。同じ基準で考えないで」
 という事であるらしい。
「不幸?」
 確かに、地球人のように暢気な前半生ではなかったと思うが―だったとすれば退屈の余りとっくに死んでいる―、彼は自分が"不幸"だったなどとも考えた事がなく、何のことかと首をかしげたものだ。
「なぜそう思うんだ」
 ところが真面目に訊き返した彼の顔をじっとみつめ、女が突然涙ぐんだものだから(何故なのかは未だに謎のままである)、彼は驚いて凍りつき、それ以上訊けないまま終わった。
 不思議な女は、彼の腕の中で安らかな眠りを貪っている。背を向けていたが、平和で微かな寝息は、女がさぞ間抜けな顔をしているに違いあるまいと彼に想像させた。
「心配しなくていいわ。あたしを乗りこなせる男は、今のとこあんた一人よ」
 彼女はよく、彼に向かってそう嘯いてみせる。確かに彼女に傅(かしず)く男共は公私に渡って多いようだが、こうして眠っている時の馬鹿面を見てなお食指の動く男がどの位いるものだろうか、と彼は密やかに笑った。
「・・・こ」
 女が溜息を吐き、何事か呟いた。寝言なのだろう。タイミング良く抗議してのけた女はしかしどこまでも柔らかく、心地良く彼に添っていた。寝惚けたか、頼り無い指先が彼の腕を辿る。その拍子、密着した肌の隙間から、温められた薔薇の移り香が仄かにたちのぼった。


 ベジータは、自分が不幸な子供であったなどとは考えていないらしい。
「なぜそう思うんだ」
 と訊ねられ、はっと胸を突かれた。事実を突きつけられ、それに頬を打たれた気がした。考えてみれば、不幸せに酔う余裕など彼には無かっただろう。どころか、比較対象になる幸福すら感じたことがなかったかもしれない。
(かわいそうな人)
 という一言で片付ける事は躊躇われた。そんな言葉すら、彼を貶めてしまう気がした。
 彼には濁りというものがなかった。
 幼い頃、寄る辺たる故郷を奪われ、肉体的にも精神的にも過酷な状況に置き去りにされた。ずっと、誇りを踏み躙られ続けて来た。にもかかわらず、彼の魂は奇跡的にも去勢される事がなかったのだ。サイヤ人である事が幸いした、ということはあるのかもしれない。澱んでしまう前に、彼らの感情はその本能たる戦闘に昇華されてしまう。
 誰に膝を折ろうとも、奥深く仕舞い込まれた自尊心は決して穢されず、内側から燦然と彼を照らし続けた。それこそは彼女を惹き付けた彼の美しさであり、また―そこに想いを馳せると喉の奥を絞り上げられるほど悲しくなるが―長きに渡って彼のただ一つの支えであり続けた。
 背後で、男の呼吸が長いリズムを刻んでいる。既に眠っているのだろう。温かな息が首筋に心地良かった。胴に回された腕はずしりと重く、彼女の柔肉に浅く沈んでいる。
 彼は、彼女の身体が大好きだった。と言ってまさかそう口に出す訳もないのだが、行動に洗い浚い現れるのですぐ分かる。二人きりで距離が近いと、彼はよく彼女のどこかに触れている。それは掌の土手であったり二の腕の肉であったり、時には隣に掛ける彼女の腿の内側であったり、尻であったりする。性的な空気を帯びていてもいなくても、彼はそうする事を好む。
 この人は飢えて来たのだろうか、と彼女は思う。それは人肌の柔らかさであるとか温かさであるとかいったものなのかもしれないし、孫悟空のように地球で、普通に(と言えるかどうかは疑問だが)子供時代を送っていたなら存分に与えられていたであろう何かであるのかもしれないが、そういうものを、今彼女の身体で取り戻しているのかもしれない―彼なりに―と思うのだ。
 間違いなく、本人に自覚など無いだろう。それ以前に、理解できるのかどうかすら疑問である。話せば多分、「サイヤ人を地球人と同列で考えるな」と眉を顰めるか「安っぽい感傷だな」と鼻で嗤うか、それすらせずに黙って困惑するだけだろう。
(もう、腕一本でどうしてこんなに重いわけ)
 彼の体のパーツは、その筋量のせいか一々重い。それにだけは毎度閉口するのだが、そうして自分が彼の少年時代を温め、癒し、柔らかな部分を育んでいるのかもしれないと思うと、彼女の中は胸苦しいほどの愛おしさで一杯になる。
「いい子」
 息が詰まりそうになって溜息と共にそう吐きだし、乳房とシーツの間に指先を潜り込ませている彼の腕をそっと撫でた。
 逞しい腕。時にこの上ない不幸で彼女を押し潰しもしたけれど、多くの悦びを捧げてもくれた。そこに彼が抱いてきた、深く長い孤独を思う。きっと、簡単には埋められない。だが幸い、時間はある。
 ゆっくりやりましょう。
 今度はあたしが一緒よ。そう囁くと、夢の中まで届いたか、彼の指がぴくりと乳房に食い込んだ。
 


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