薔薇の追憶 (34)

 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next

 到着して早々、彼は一悶着起こした。
 彼を ―というより編髪の男をだろう― 出迎えた兵士の一人が発した不用意な囁きが、発着場から基地ゲートに向かっていた彼の耳に届いたのである。
『見ろよ、生意気そうな子猿だ』
 咄嗟に、手が出ていた。気付いたときには、獲物は胸の真ん中に風穴を開けて彼の足元に転がっていた。
『何をしている!』
 先を歩いていた編髪の男は、呆気無い光景に立ち尽くす部下達を突き飛ばしながら、大股で彼の元へと引き返す。
『兵士は軍の財産なのだぞ、お前の玩具ではないのだ!誰が好きにしていいと言った!』
 声を荒げる男を無視し、彼は倒れている兵士をじっと見下ろしていた。視界の端で、指先が更なる苛虐を待ち侘びるようにぴくぴくと痙攣する。その蠢きが、彼が心のどこかで張り詰めさせていた何かを断ち切り、そこに囲い込んでいたものを解き放った。
『何をす・・』
 男が止める間も無く、彼はその小さな足を倒れた兵士の蟀谷(こめかみ)に乗せ、力を込めて体重を掛けた。めりめり、と頭蓋が軋壊する。息絶えるまでの一瞬、金属的な断末魔が漏れた。陰惨な光景に、というよりも子供にあるまじき異様な凶気に、兵士達はおろか編髪も一緒になってその場に凍りつく。
『・・とりおさえろ』
 頬に跳ねた脳漿を彼が舌先で舐め取った瞬間、編髪がはっと我に返ってそう発し、即座にそれを撤回した。
『いや、お前達は下がれ』
『ザ、ザーボン様』
『死人を増やせば、それだけ私が厳しいお叱りを被る』
 ざわめきながら後退する兵士達の様子が、目の端にぼんやりと映っている。だが彼らの顔にどんな表情が浮かんでいたのか記憶に無かった。血臭に刺激されて急激に高まったアドレナリン濃度が、彼の視野を絞りつつあったせいだろう。
『躾の悪い小僧だ。私は野蛮な輩は好かん。フリーザ様もお好みではないぞ』
 その声も、湧き上がる興奮の為か耳の奥で詰まったように響く。
 彼が王太子として遇されて来た理由は、数値の示す力がすべてだという訳ではなかった。嬰児の頃はそうであったかもしれない。他に判断材料が無いのだ。彼は王の子等の中で最も―ずば抜けて―戦闘力が高かった。王室医師団は最初、新鋭の装置がもう故障したと騒いだ。
 成長に伴い、医師達は新たなる驚きに―異常なまでの伸びの速さに対するそれ以上に―目を見張る事になった。彼は、非常に怜悧な子供だったのである。
『おまえも死ね』
 だが、幼さは如何ともし難かった。
「昂り過ぎてはならん、冷静な判断が下せなくなる」
 父王は、戦場で何度も彼をそうたしなめたものだ。だがその強烈な本能を抑え込めと命ぜられるには、酷に過ぎる年齢であったと言える。尾骨から背骨を伝わり、頭頂から噴き上がって肌を走り下りる興奮に、理性が麻痺してゆく。この状態になってしまえば、大人のサイヤ人でも簡単には踏み止まれない。
『身の程を弁えるがいい』
 男の口元が、綺麗に歪んだ。
『運のいい猿だ。今殺す訳にはいかんからな』
 眉間を刺す殺気にいよいよだと身構えた瞬間、男の姿が視界から消え、頸根に鈍い衝撃が走った。


 顔面に冷たいものが降り注ぎ、覚醒した。
 最初に目に入ったのは、両側頭部に角のある奇妙な生物の姿だった。黒く艶光りする丸いポッドがすぐ脇で宙に浮いており、その上から覗き込むようにして彼を見下ろしている。眼球を動かして観察すると、既に屋内のようで、彼は床の上で大の字になっているらしかった。
『挨拶も済まさない内から、困った子ですねえ』
 その妙な生物が言葉を発する事ができるという事実に、彼は別段驚きを感じなかった。それの持つ赤い瞳に、鋭い知の光があったせいだろう。顔中を濡らす液体が ―アルコールか― 眼球に滲み込み、痛みを伴って視界が曇る。その生物が、彼の真上で逆向けたグラスの縁から薄赤い滴を指先に受け、紫色の唇に運ぶ姿がぼんやりと確認出来た。
 身体中がだるく、指の一本一本に大人がぶら下がっているように重い。だが無様な姿を晒すのは我慢がならなかった。彼はその手を無理矢理持ち上げ、指の背で顔の水分を拭い飛ばし、よろめきながらも立ち上がってぐっと背筋を伸ばした。
『おやおや、一撃お見舞いされているというのに元気の良いこと』
 ねえ、ザーボンさん。ちらりと流した視線を追うと、さっきの青い肌の男がその先で畏まって控えていた。してみると、この薄気味悪い小男(男だと聞いている)こそがフリーザなのだろう。予想はついていたが―
『離せ、くそ』
 何者かが足掻く気配に振り向くと、屈強そうな二人の兵士に両脇を抱えられたナッパが、無駄な抵抗を試みている最中であった。そして、不覚にもこの時初めて気付いたのであるが、部屋の中には壁に沿って多くの兵士がひしめき合っている。珍しい見世物でも眺めるような不躾で面白げな視線が、四方八方から彼に降り注いでいた。
『貴様、突っ立ってないで御挨拶しないか』
『いいんですよ、ザーボンさん。礼儀を弁えない野蛮人に育てられたのでは、まともな挨拶が出来なくても無理のないこと』
 安心なさい、これから私がしっかり躾けてあげます、とフリーザが笑う。皮膚を逆撫でするようなねっとりと不快なその声に、ぐるりを囲む兵士達の低い嘲笑が続く。
『こんのヤロ、言わせておけば・・』
『お初に』
 だがナッパの喚き声に被せるようにして発せられた言葉に、フリーザが真顔に戻った。
『お目にかかります。このたびわたくしをお召し抱え下さるとのこと、身に余る光栄にて、力の限りお仕えしたいと参上いたしました』
 彼は、返り血で汚れた姿のままフリーザを真っすぐ見上げて言い切ると、優雅に一礼しながら跪いた。薄笑いを浮かべていたザーボンが、唖然とそれを引っ込める。
『末ながく、おそばに置いていただければ幸いです』
 幼い頃、彼は自分の声が好きになれなかった。どう頑張っても甲高くなるし(子供なのだから当然だが)、どこか、不思議に甘いのだ。変声期を過ぎてからは、却ってそれが獲物を震え上がらせるエッセンスになるらしい、と気付いたのであるが。
 場はしいんと静まり返っていた。前後左右すべてだ。周囲の兵士達も、見えなかったがおそらくはナッパも、目の前の子供の滑らかな口上に、一様にぽかんと口を開いている。次にフリーザが弾けるように笑い出したのだが、それまで随分と長く沈黙が続いたように感じられた。
『ほほほ、気に入りましたよ、実に気に入りました。期待以上です』
『おそれいります』
 彼は幼かった。
 けれど彼を守り立てる者は、もうどこにもいないのだった。
「この先、頼れるのは己だけだ」
 耳の奥で、父王の声がこだまする。
「己の頭で判断し、己で時機を見極め、己の力で実行してゆけ」
 彼は、支配されてはならない子供だった。それはこの世に誕生する前から宿命付けられていたことだ。
 そして、彼は利発なのだった。生れ落ちたそのとき、そうあれかしと望まれた以上に。ここで生き、勝ち残る為に ―黙ってここへ送り込まれて来たのも端からそれを期してだったではないか― 何が必要なのか、彼には瞬時に理解できた。屈辱に尾の根を痙攣させ、煮え滾る怒りに脳髄を焼き切られそうになりながら、彼の身体はこの時、恐ろしいほどその理性に従って動いた。戦闘の快感はしばしば彼からそれを奪い去ったものだが、これ以降、そういった事も嘘のように鳴りを潜めた。そうしようとはっきり意識した訳ではない。だがこの瞬間、彼は子供であることのすべてを、捨てた。
 そうだとも。
 何もかも予定通りだ。こんな程度の屈辱に折れてしまうほど、俺は弱くはない。
『部屋を用意しています。そこで休んでいらっしゃい。後で正式に引見して役職に就いて頂きましょう。そのお歳じゃさすがに今すぐという訳にはいかないでしょうけれど、あなたには近々指揮官として働いてもらうことになると思います』
『ありがとうございます』
『下がってよろしい。チェイリ、案内してあげなさい』
『はっ』
『お待ちください、フリーザ様』
 フリーザの下知に前進し、きびきびと敬礼している兵士を押し退けるように、ザーボンが進み出る。
『こやつは、先程兵士を無断で殺害致しております。それに関する御裁定を頂いておりませんが・・・』
『ザーボンさん』
 フリーザの声は静かだ。だがその声に、対応を誤れば彼がリンチに掛けられたのに違いないその狭い部屋の中で、生あるものすべてが凝固するのが分かった。
『おそれながら、教えるべき事は最初に叩き込んでおかねば、この手の子供は増長します』
 ザーボンは一瞬怯んだが、重力を感じさせる空気を破ってさらに申し出た。怒りを買わぬエッジラインを心得ているのであろう。この男も『特別』の一人なのかもしれない。
『そんな事ありませんよ。そんなお馬鹿さんなら、この私が気に入るはずありません』
『しかし』
『間違っているとでも言うのですか、この私が』
『・・いえ』
『まあいいでしょう、筋を通すのは悪いことじゃありません。ベジータさん』
 フリーザは、背を向けかけたまま留まっていた彼を呼び戻し、丸い乗り物の上から見下ろした。
『よろしいですか、兵は私の持ち物なのです。自由に処断して良いのは私だけ。憶えておおきなさい』
『・・はい』
 黒いポッドをなぞるように、フリーザの尾が―身体に隠れて見えなかったが、あったのだ―彼に伸びて来る。途端、兵士達が極度に緊張する様子が肌を刺すように伝わってきた。
『あなたにはサイヤ人だというハンデがある。たださえ他より昂りやすいのですから。ここで出世したければ、常に冷静に御自分を律することですよ』
 今さっき、私に対してそうして見せたようにね。きゅっと頬を持ち上げ、目を弓形に曲げて、フリーザが不気味な笑みを浮かべる。
『心掛けます。申し訳ありませんでした』
 小さな白い軍靴の踵をかつと鳴らして頭を下げると、彼に向けて空中に留まっていた尾の先が、不意に撫でるようにして頬をかすめ、フリーザの背後に戻った。兵士達が、安堵のような失望のような溜息を吐いて微かにざわめく。彼がその尾で折檻されるのでは、と恐怖半分期待半分だったのであろう。
『解ればよろしいのです。あなたはなかなか賢い』
 同じサイヤ人でも、出来の良い子がいたもんですねえ。その男とは随分違う。フリーザがそう言って彼の背後に顎をしゃくると、両脇から挟み込んでいた二人の兵士が、ナッパを床に投げ出した。
『それも連れて行ってよろしいですよ』
 だが派手に膝を打つ大男を見も遣らず、失礼致します、と一礼して彼はフリーザに背を向ける。
『どけ』
 憎々しげな表情で立ちはだかっているザーボンに、彼は傲然と言い放った。兵士達が、再びぎょっと黙り込む。
『・・貴様、上官に対する口のききかたを知らんようだな』
『俺に命令できるのはフリーザ様だけだ。道を開けろ』
 凄まじい目で見下ろしながら、それでも道を開いたザーボンの脇を、彼は悠々と通り過ぎた。待って下さいよ。床に打ち付けた右膝を摩りながら、ナッパが慌ててその後を追う。
『ふふ、可愛い事を言う』
 扉が閉まる寸前、そう言って笑うフリーザの声が耳に届いた。

 長きに渡る雌伏の時代。これが、その幕開けであった。


 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next