薔薇の追憶 (32)

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 翌朝、父は何食わぬ顔で姿を現した。
『お后様はお出ましになられませんのか』
 どう好意的に見ても場にふさわしいとは言い難い深紅のガウンを素肌に纏って、二人きりの朝餐の卓に着く。凝った血液を思わせる夜着を渋面作って一瞥し、内大臣がそう奏上すると、その巌のような顔にちらりと流し目を遣り、父は口髭の下で薄く謎めいた微笑を浮かべた。
『知らぬ』
『王后様は昨夜、奥から御出座あそばされたと女官長から報告が』
『いかにも、さっきまで同衾しておったわ』
 微睡(まどろ)んだ隙に消えたのよ。父は溜息と共にそう言い放つと、大人三人横になれる程度の円卓の上、澄み光る水を湛えたグラスの縁に大儀そうに右手を伸ばした。荒削りに見えて計算し尽くされた重厚な造作に指を預け、曲線に沿って撫で下ろす。角張ったカットの冷たい刺激に神経が目覚めるのだ、とそうする理由を彼に打ち明けたのは、いつの事であったろう。
『今はどちらに』
『知らぬと申すのだ』
『王子は間も無く御出立あそばされるのですぞ、気儘も大概にして頂かねば・・・』
 ついに漏れた本音に、王はくつくつと喉を鳴らした。大臣としては、躾がなっておらぬのは一体どなたの責任か、とでも続けたいのだろうが、さすがに控えている。
『待ったか』
 父は、右手指をグラスに沿わせたまま左でこめかみを揉みつつ、既に隣に着席していた彼に―本来許される行為ではない―訊ねた。視線は卓上の白磁器に落ちているようだが、掌に隠れて定かではない。
『まった』
『そうか』
 欠伸を噛み殺しながら言い、小さな動作で首を左右交互に伸ばすと、父は椅子の上でゆったりと姿勢を正した。“開始”の合図である。王の隣で巨石のように突っ立っていた大臣が背後の官人に頷くと、白い服の給仕が二人、各々ワゴンを押しながら静々と入室し、王と彼の背後に控え、料理を卓に出す準備を始めた。
『よく眠れたか』
『・・なぜだ?』
『夢でも見はせなんだかと思ってな』 
 見聞きしたこと、すべては夢と心得よ。
 という言外の命令である。だがそれは、いくら相手が子供であれ披瀝すべきではない場面について、ではないだろう。父はそうした感覚が少々緩やかであったと思われ(あるいはそれも父流に言うと『略術』であったのか)、王が頻々と出没するところ、妖しい空気が満ちる後宮で生後三年を過ごした彼にとって、あの程度は何ほどでもなかった。彼自身幼かった上、父の振る舞いもさしてあからさまではなかったので、その頃は何がどうと解る訳でもなかったのだが―
『おぼえてない』
『そうか。ならば良い』
 彼が答えると、父は前菜に添えられた親指ほどの黄色い果実を、二つ三つ摘みあげて口に放り込み、それだけ言って話題を変えた。父に掛かると、そんな挙措も不思議と優雅に感じられる。彼にはそれがいつも不思議だったし、その洗練を体得しようと子供なりに努力もしてみたものだ。
『それで、新しい近侍はどんな具合だ?』
『さいあくだ』
 父の真似をして果実に手を伸ばしながら彼が切って捨てるように言うと、父は苦笑いしながら、だろうなと頷いた。
『だが王子よ、あれは役に立つ。これからのそなたにとってはな』
『あれでか?』
『あれだから、だ。今に分かる』

 あの時点で、父には終焉が仄見えていたのだろうと思う。
 「今」になって考えるに、あれは、彼がこれから放り込まれる環境でどうすれば生き抜く事が出来るか、という父なりの配慮だったのではあるまいか。不本意な話ではあるが、フリーザの傍近くで必要以上に敏い配下を持たなかった事が、彼に幸いしたのは確かである。少年兵というにもあまりに幼い身ではあるから、と一人に限ってフリーザが随行を認めたというが、それがもしも幹部どもに危惧を抱かせる人物であったなら、彼はますます動きが取り辛くなっていた、どころか早々に抹殺されていたかもしれない。どのみち彼だけが目こぼしを受ける保証はどこにも無かった訳だが、「あの時期に」呼び寄せたからには、フリーザは少なくとも 、気に入れば彼を手元に残そうという心積もりではあったのだろう。父は、その可能性を出来得る限り確実なものに近付けようと考えたに違いない。
 ナッパは、あまり頭の切れる性質(たち)ではなかったうえ(と言って手の施しようもない馬鹿という訳でもないが)、同族達のレベルに鑑みれば上の中あたりの戦闘力で、終には彼の手で葬ったものの、そこそこ使える男だった。母星を失った後、彼の成長をラディッツと共に支えたのも事実である。当然の事だと彼は思っていたし、その事について特に思い入れがあるという訳ではなかったが、あれは実に適任であった、と今は思う。それはつまり、そう思い返すだけの余裕が彼に生まれたという事でもある。
「人生を作るのは記憶、つまりは過去なんだわ。そう思わない?」
 とは、かつてブルマが吐いた迷言であった。 だからさあ、素敵な今を積み重ねなきゃ!と跳びかかって来られたので、その時は何のことだか考える間も無かったが。
 
 迎えの船が上空に現れたころ、雪が舞い始めた。
 使者団が下船する頃には本降りになっていた。極地近くでは珍しい事ではないらしいが、王都での降雪など、ここ二十年来無かった事だという。
『やけに冷えると思っておりましたが』
 白い息を吐いて囁く近衛隊長の言葉に、彼の嫌いな衣装を着けた大臣が重々しく頷いた。臣下達は、滅多にお目に掛からない雪を見て驚き、ざわめいている。が、使者団が中門を潜り、宮城前の広場に姿を現すと、そこに居並ぶ彼らに奇妙な沈黙が下りた。
 船に幾人残しているのかは判らないが、使者として船外に現れたのは、わずか三名であった。
『なんという』
 侮るか、という大臣の呻きが耳に届いた。彼を軽んじているのだと見せ付けるかのような、まるで体裁の整わぬ頭数である。
『これはこれは、直々に御出座(おでま)しとは。御苦労な事です』
 彼らまで十歩ほどの距離まで近付き、使者達は立ち止まった。と同時に先頭の男が、静かな美しい声で初っ端から王に無礼な言葉を浴びせる。
 以前父が「気味の悪い」と形容したのはこの男に違いあるまい。薄青い皮膚は異常に滑らかで、何故かぬめっているような印象を受けた。顔貌は滅多に無いような美形だが、どことなくぞっとしない。生理的な嫌悪に近いだろう。気取った物腰や慇懃無礼な物言いも拍車を掛けている。
 そしてその神経の軋みを感じながら、彼はこのとき初めて自分の―サイヤ人の置かれた立場というものを、息苦しいほどの実感と憤りを伴って理解したのであった。薄々知っているつもりだったが、悉くが甘い想像に過ぎなかったと知れた。生れ落ちてからこの瞬間まで、彼は“次代の王”としての扱いしか受けたことがなかったのだから(まして幼児であったのだから)、自分をこれほど蔑ろに扱う世界が存在するという事に想像が及ばなくとも、無理からぬ話ではある。
『お役目、大儀』
 意に介した様子も見せず、父は涼しい顔でそれだけ言うと、先に立って彼らを招き入れるべく踵を返し、正面の大階段から奥へと敷かれた緋絨毯に踏み出した。が―
『我々はここで失礼する。王子をこちらへ』
 肩に垂れる編髪を後ろへ跳ね上げ、男は素っ気無くそう言うと、初めて彼の方に視線をよこした。黄色い瞳の作り物めいた光に嫌悪を掻き立てられ、彼はぎゅっと眉を顰める。
『饗応の仕度など整っておりますが』
『せっかくですが急いでいるのだ。それに』
 大臣の声に被せるように、男の声が少々鋭くなった。視線は彼に据えたままだ。そして薄く笑いながら、今度は一転優しげな声音で、憐れみをさえ滲ませて言った。
『あなた方の食されるものが、私共の口に合うとは思われません』
 それがどういう効果を発揮するかを知り尽くしているのだろう、男は薄く瞼を下ろし、長い睫毛越しに居並ぶ重臣達を睥睨した。かたかた、と背後で微かな音がする。見ると、近衛兵の一人が着けるプロテクターが、隣の兵士が身に着けるそれの端と小刻みに触れ合い、鳴っているのだった。震えている。寒気に、ではあるまい。現にその目は、今しも火を噴きそうに燃えていた。
『それは残念』
 父は二、三段登った辺りで肩越しに経緯を見ていたが、険悪になった空気の中で再び向きを変え、さも遺憾そうに眉根を寄せる。そして至極真面目な表情のまま、よく通る声で独白のようにこう呟いたのだ。
『主菜には、大蛙の姿焼きなど用意致したのに』
 途端、男が凄まじい目で父を睨みつけた。
『リリール星産だ、美味なのだが』
 軽い調子で付け加えられた言葉に、一瞬空気が帯電したのが分かった。男の形相は逆立ち、顔色は怒りからか青黒く変色している。遣り取りの意味を量りかねて顔見合わせる臣下達の中で、博識で鳴らした女官長一人が冷ややかな笑いを浮かべている。母は、結局姿を現さないままであった。
『・・・時間が無い。早く顔が見たいとのフリーザ様の仰せである。その子供をこちらへ』
 だが強靭な精神力で感情を抑え、男はすぐにその端麗な表情を取り戻した。現実がどうであれ、惑星ベジータは、形の上では彼らの主が盟約を結んだ同盟星である。使者の身で、それ以上勝手には振る舞えないのだろう。
『では王子』
 彼の隣に、王が静かに歩み寄る。視界の中に現れた白いブーツの爪先が、怒りで煮え滾る眼球に焼き付いた。
 許せない。
 侮る使者どもが、ではない。侮られる父が許せないのだった。彼の父ともあろうものが―
『参るがよい。これからは一人だ。決して判断を誤ってはならぬぞ』
 低く重く、声が降る。握り締めた彼の拳に雪が舞い降りようとしたが、彼を包む空気に触れ、届かないまま蒸発した。
(王のくせに)
 王のくせに、何の力も持たぬ。黙って彼を差し出す事しか出来ないとは、この男は何と惨めなのか。
 彼は目を上げた。初めて蔑みを込めて、父の顔を見上げた。自分を産み出した存在に対してこんな思いを抱かせた男を、憎いと感じた。
『そうだ、それでよい』
 己を磨き、時期を見極めよ。父は微かに痛むような、同時に満足そうな、どこか遠くを見るような不思議な表情を浮かべて彼の視線を受け止めたまま、自ら噛み締めるようにそう言った。


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