薔薇の追憶 (23)

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『!』
 彼は、薄黒い衣装を纏った大勢の人々に取り囲まれておりました。衣装から、それが女性達である事が分かります。全体的に動作がゆっくりしており、歩行が困難である様子なので、最初は老婆なのだと思いました。しかし一人ずつよく見ると、それほどの年齢でもなさそうな女性が幾人もおります。
 彼女たちは一様に病的で、ある人は骨皮ばかりにまで痩せ衰え、また別の人は鼻がもげて無くなっているというような状態でした。ルブは、傍で湯気を上げている底の深い大きな器から皿にスープを移し、籠からパンを取り出して、彼女達一人ひとりに分け与えています。その度に背の高い身体を屈め、彼女らの顔を覗き込んで一言二言声を掛けているようでした。彼の隣で給仕の手伝いをしている女性は、横顔に見覚えがありました。どうやら彼の館の女中のようです。
(こわい・・)
 彼女達は一体何なのでしょう。何故あんなに薄汚れた、異様な姿をしているのでしょう。わたくしはあまりの気味悪さに声も出ず、身動きもできない状態でした。そうして凍りついていると、ルブの正面に来てスープを受け取ろうとしていた一人の老女が、扉の隙間から見えるわたくしの姿に気付き、その視線を辿って振り向いたルブがわたくしの存在に気付いてしまいました。
『どうしてこんなところに?陛下はどうなさったのです』
『あの人たちは?誰なのですか』
 ルブは女中に給仕を任せて階段を上り、自分の身体ごとわたくしを奥に押し込んで、後ろ手に扉を閉めました。声を潜めて申す彼は、見た事も無いほど険しい顔をしています。今見た光景と彼の表情にショックを受け、わたくしの声は震えていました。
『どうやって入ったのです』
『う、裏手の出入口から女中が花を摘みに出てきて、それで・・・』
『ああ・・その都度鍵を掛けろとあれほど言っておいたのに』
 彼はぎゅっと眉を寄せ、白い指で目頭を押さえて溜息を吐きました。
『何なのですか、あの人たちは』
 取り縋るようにして追求するわたくしに、彼は目を上げました。薄暗い廊下で、その眼球が作り物のような不気味な光を放っています。
『娼婦ですよ』
『え・・しょ・・・』
『かつての娼婦達の、成れの果てです。老齢や病のせいで商売が出来なくなったもの、娼館を追い出されたものたちです』
『娼・・だったというのですか、あの人たちが』
『そうですよ。この館の娘達と同じ―あなたもそうなるはずだったが―かつては娼婦だったのだ』
 目の前が真っ白になりました。
 あなたたちは選ばれた女性。最高の花として開くために、あらゆる努力をしなさい。
 ルブは事あるごとにそう申して、わたくしたちを育てて参ったのです。わたくしたちは一流であり、殿方の夢であり、社交界の華であり・・その為に、厳しい躾やレッスンに耐え、美しい体を作る為に食べたい物を我慢し、数々の言語を習得し、花飾りの作り方から難解な哲学まで修めて参ったのです。成長した娘達の中には、顔や身体にメスを入れる痛みに耐えた人もありました。外の世界の女性達の一生分の稼ぎを一週間で生み出す。それがわたくしたちなのだと、彼はそう言ったのです。
『その果てがああだと、言うのですか』
『昔教えた事があったでしょう、ここにはあなたたちとは住む世界の違う人々が出入りするのだと。どんな形で引退したにせよ、あなたたちはその美貌と才覚、それまでの蓄えで優雅に第二の人生を送れるはずです。わたしはそのようにあなたたちを育てて来たのですから』
『でも、でも娼なのでしょう?彼女達も。あなたと同じ娼だと、今そう言ったわ!』
『落ち着きなさい。娼にも色々レベルというものがあるのです、人間や物事に様々なレベルがあるのと同じようにね。わたしの館の娘達がああした末路を辿った事など一度もありませんよ』
『そんなことを言ってるのじゃないわ』
 初舞台を踏む前に陛下に見初められ、安全な所に囲い込まれて甘やかされ、業として殿方を楽しませる事の何たるかを現実には経験していなかったわたくしに、突然突きつけられた事実でした。どんな事でも信念を持って行わねばそうなりがちであるように、それがともすれば砂を食むような空しい事だとも、ときに心や体を蝕む過酷な労働である事も、わたくしは全く知らずにいたのです。
 現実問題として、あれがわたくしたち「館の娘」の末路であるかどうかは、この際問題ではありませんでした。あの鼻のもげた恐ろしい容貌や病に冒された身体、精神を病んだような奇行に醜く老い果てた肉体と、彼がわたくしどもにずっと言い聞かせてきた輝かしい娼婦像というものとの落差が、あまりにも大き過ぎたのです。憐れなかつての女神たちに施しをしたその同じ手で、新たな女神を育て続ける彼の矛盾が―当時のわたくしにはそうとしか思えませんでした―、彼自身や彼の言葉をひどく胡乱(うろん)なものに見せました。
『とにかく御自分の館に戻りなさい。陛下を放っぽり出してこんな所に来るなぞ、どういうおつもりなのですか』
『言われなくともそうします』
 道を空けてくださいな。わたくしの激しい調子にちょっと驚いたように眉根を開きましたが、彼は常のように物柔らかな仕草で退き、通路を開きました。あのときのあなたは恐かった、と彼は今でもわたくしをからかいます。

 内庭に戻ると、震える咽喉を押さえながら、我知らず深呼吸していました。自分があの薄暗い場所で息の詰まりそうな閉塞感を感じていたのだと、自覚しました。
 既に朝陽が射しておりました。低い光を受け、薄い朝霞の中に林の木々が優しい影を投げています。一種神々しいようなその光景を見ていると、悔しさのような悲しみような、怒りのような、訳の分からないものが込み上げて参りました。無性に泣きたくなって、わたくしは刈り込まれた低木で囲われた手近な一画に滑り込みました。
『何を泣いておるのだ』
 座り込んでしゃくりあげるわたくしの背後で、低い声が響きました。びっくりして振り向くと、その小さな区画一面を覆う青いラミカの花の上に、陛下が長々と寝そべっておられます。


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