薔薇の追憶 (22)

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 庭に出て、彼女の申しておりました辺りを探してみましたが、陛下のお姿はありません。しばらく辺りをうろうろしていて、庭と言っても林のむこう、白の館の内庭の事かもしれないと思い当りました。向こうの館の人に姿を見せないようにとわざわざ注意があったのです、きっとそうなのでしょう。
 早朝の林は薄く霧を纏い、何とも神秘的な美しさでした。それなりの年月を生きたつもりでおりましたけれども、わたくしは早朝の世界のそんな美しさを知らずにおりましたのです。世の中にはまだまだ知らない事が沢山あるのだろう、と感じ入った事でございました。
 歳?わたくしの、でございますか?
 そうですねえ、この星で成年に達したと言われる年齢をひとつふたつ過ぎた辺りでございましたかしら。ほほ、ええそうですよ、今では殿下の倍は軽く超しておりますとも。若く見えますか?まあ、今からそんなお上手では先が思い遣られますこと。
 林を抜け、刈り込まれた低木で区画された広い内庭を見渡しましたが、やはり陛下のお顔は見えません。ルブの館の方へお越しになられたのかも知れないと考え、わたくしは少しがっかりしました。他所の棟まで押しかける訳には参りません。しかも御用あってお渡りあそばしたのなら、お邪魔する訳にも参りませんし・・・仕方なく、引き返して朝の支度でもしながら陛下をお待ちしようかと考えていたとき、突然目の端で何かが動きました。反射的に身を屈め、低い植え込みの間から覗き見ると、建物の西の端に少し窪んだような箇所があり、そこから女中の一人が花摘籠を手に出て参る所でございました。
 あんなところからも出入り出来たのかと―悪い癖です―好奇心が疼き、彼女が遠ざかるのを待ってその場所まで近付きましたらば、果たして壁に穿ったアーチ型の穴の奥に、小さな木製の扉がございます。耳をそばだてましたが、近くに人の気配らしきものは感じません。黒い金属で出来た丸い引き輪に手を掛け、そっと押しますと、扉はキイと細高い音を立ててびっくるするほどすんなり開きました。
(しい、しぃ!お願いだから静かにして頂戴な!)
 わたくしはその音に、くつろぎ過ぎのこの姿を人に見られてしまうと慌て、自分の唇に指を押し当てながら扉に抱きついて動きを止めました。頭が入るほどの大きさに開いた隙間から暫く窺っていましたが、幸い気付いたものは無かったようで、誰かが様子を見に姿を現す事はありませんでした。ほっと胸を撫で下ろしながら中に滑り込みますと、石畳が剥き出しになった廊下が奥に向かって続いています。靴音を立てないように注意しながら進んでゆくと、先程わたくしの館で初めて耳にした、厨房独特の喧騒が近付いて参りました。
 位置的な事を考え合わせて分かったのですが、どうもわたくしは、幼い頃から足を踏み入れる事を禁じられていた区画の中に居るようでした。美しい絨毯が敷き詰められた廊下の果て、奥まった場所にある扉は常に施錠されており、その向こうはわたくしにとって未知の世界だったのです。
「どうして行ってはいけないの」
「あなたとは住む世界の違う人達が出入りするところだからですよ。知る必要はありません」
「でも、見てみたいわ」
「見るべきではないからそう申しているのです。世の中望みどおりに進む事などほとんどありはしませんよ。大事の前では、小さな欲望は捨てねばなりません」
「少しだけならよいでしょう?ね?」
「可愛い顔をしても駄目なものはダメです。お諦めなさい」
 ルブが隠そうとするものとは何なのか、知りたくて知りたくてたまらなかったものです。大人になるに従って忘れていったその思いを、奥から漂ってくるスープの香りははっきりと呼び覚ましました。
(大したことじゃ無かったのだわ。彼が隠し立てするものだから、一体何なのだろうと姉妹達と一緒に想像を膨らませたものだけど)
 壁に開いた出入口からそっと顔を覗かせ、食事が生み出される現場を生まれて初めて目撃しながら、わたくしはルブの秘密主義振りに少しうんざり致しました。
(まあ、すごいわ・・楽しそう)
 厨房では、白くて動きやすそうな服を身につけた料理人達が、忙しく立ち働いております。しばしば料理長らしき一人の怒号が飛んでおりましたけれど、食材を刻むリズミカルな音や、鍋から上がる様々な色の炎や湯気、なによりもおいしそうな香りに、胸がわくわく致しました。料理とは料理人のものであり、自分とは縁遠い世界のように感じておりましたけれど、やってみると面白いものなのかも知れない、とわたくしは感じていました。
 それにしても、そこは少々暑く、湿度が高いのでした。湯気や火のせいなのでしょう。しばらくすると肌が不快に湿ってくるのを感じて身を引き、廊下の冷たい石壁に触れて体を冷やしました。
(風・・?)
 そのとき、見上げていた先、壁の高い位置に取り付けられた燭台の黄色い炎が、ゆらゆらと揺れている事に気付きました。もちろん、空気の通り道などどこにでもありますし、そのこと自体不思議はありません。ですが同時にわたくしの皮膚が、心地よい、正に「風」と申して遜色無い空気の流れを捉えたのです。台所の中にはいくつも窓がありましたが、それはその部屋から流れ出てくるものではないようでした。
(どこ?)
 よくよく見ると、厨房のさらに奥まった場所へと廊下が鉤形に折れ曲がって続いているようで、風はどうやらその奥から吹き込んでくるようなのでした。まだ奥に何かがあるのだと判った以上、進まないではおられぬ因果な性分でございます。わたくしは様子を窺い、好機を得て厨房の出入口の前を走り抜けました。
 つきあたりを右に曲がった先には、もう一つ扉がありました。完全に閉まってはおらず、内側に向かって少し開いたその隙間から、どうやらその外側は屋外であるということが判りました。微かに、話し声が漏れて参ります。用心深く足音を消して近付き、そうっと扉を引いて隙間を広げると、三、四段の階段があり、その先に真っ白な長い髪が見えました。
 ルブです。


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