薔薇の追憶 (2)

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 ヤムチャは、足指にだってキスしてくれたわ。
 余程そんな事を言ってやろうかと思ったが、さすがに声には出来なかった。ブルマは、彼女を相手にしないまま黙り込んでいる男を横目で睨み、深々と溜息を吐き出す。ぱちゃんと水を跳ね上げた彼女の手に、胸元で湯に浮かんでいた一輪が弾き飛ばされた。
「何がそんなに気に入らないのよ」
 腹に力を込めて低く吐き出した彼女の言葉に、ベジータはやっと視線を巡らせる。
「・・ああ?何のことだ」
「あんたさっきからずーっと顰め面じゃないの」
「悪かったな。生まれつきだ」
「ああそう。生まれたときからこーんな顔してるってわけ?」
 そう言って彼女は精一杯眉間に力を入れる。
「醜いぞ」
「御愁傷さま。あんたの顔真似よ」
 ぷいと顔を背けた彼女は、大きな円形のバスタブに沿って彼から遠ざかった。水面を覆い尽くすカンツォーネが、ぬるい湯の中を移動する彼女の白い身体に押され、周囲の花を押し遣りつつ一枚の岩盤のように遠退く。
「随分不機嫌だな」
「お陰様でね」
「何が気に入らんのだ」
「それはあたしがあんたに訊いてる事でしょ」
「それこそ何の事だか分からん」
「何言ってるのよ、話し掛けても碌に返事もしなかったくせに」
「何と言ったんだ」
「・・聞いてもなかったって訳ね」


 ブルマは実に気紛れだ。状況が同様でも、気分によってその都度要求を変える。
 いちいち付き合ってられるか。
 ベジータは鼻を鳴らし、突如不機嫌になった女の背を睨んだが、彼女がいきなり怒り出す事など珍事でも何でもなかったので、別段気分を害した訳でも無かった。細い項から肩に掛けての流れるようなラインが、湯煙に薄く滲む。ミルクのような肌に纏わり付く花弁の深い色合に、彼女が血の海の中に立っているような錯覚を起こしそうになる。
 乳は血液の延長である。
 そう言ったのはブルマだったか。しかるに彼は、赤と白の血の芸術を鑑賞しているわけだ。
 芸術か。
 言い得て妙な表現だ。我ながら、と彼は微かに唇を歪める。訳が解るから、ではない。本能で選び取るのだ。彼にとっては、それも彼女も正にそういうものだった。
『ベジータ、遊ぼ』
 屋上で。そう彼女に誘われた時には、例の如く屋外のバスタブの中で、文句だの無駄話だのを聞かされるのだろう、と思っていたのだ。
 彼は最近、彼女のこの『遊び』に付き合うようになった。彼女はここのところ常に多忙で、意識して時間を捻出しない限り、生活リズムがずれている彼らが顔を合わせる機会は極端に少ない。トランクスは既に(幸いにして)両親よりも友人と過ごす時間を楽しむようになっていたので、彼女は時々こうした閑暇を作り出しては彼と共有しようとしているようだった。
 お前の努力に報いてやろうというんだぞ。それをお遊戯みたいに言いやがって。
 少々眠かろうと、下らないお喋りに付き合ってやっているのだ (と言えば 『あんたは昼寝できるんだから良いじゃないの』 と文句が一言増えるので黙っていたが)。日頃、それが小さな不満だった。
 この夜も常のように彼女に遅れてこの場所に足を運んだ彼は、素肌にローブ一枚羽織った姿でその場に凍りついた。
(何故知ってる?)
 だが水面一杯に浮かぶ赤い花を手に取り、いい匂いでしょう、あんた薔薇風呂初めてだったわよね、と笑い掛ける女の顔に邪な影は無かったので、それは考え過ぎだ、と彼はすぐに冷静さを取り戻した。
 だがそれきり、彼の思考は過去へと飛んだ。女が隣で何やらごちゃごちゃ喋っているのは知っていたのだが―
(色まで似てる)
 湯の表面で押し合うように浮かぶ花の中から一輪を掬い上げる。距離が縮まった分、香りが強くなった。
(匂いは― どうだったか)
 正にこんな形にお膳立てされた夜、彼は生まれて初めて女に触れたのだ。


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