薔薇の追憶 (19)

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 陛下は長椅子に腰を下ろされ、少し俯き加減でグラスを―フェルナンドです―手にされたまま、長い間黙っておられました。時々思い出したように杯に口を付けられるのですが、お心を遠くに飛ばして何か考え込んでおられるような御様子です。わたくしもまた黙ったまま、ゆっくりとしたペースで干される杯にお酒を注ぎ足しておりました。あまり間近に侍るのもどうだろうという気が致しましたので、わたくしは一人掛けの角椅子を陛下のお席の傍に引き寄せ、そこに腰を下ろしておりました。お酌申し上げるには少し遠いかしらと思われる距離です。
『何も訊かぬのだな』
 そこに誰か居る事に初めて気付いたというように、陛下がふと顔を上げられました。今宵と同じく少し膨らしたような半月が美しい夜で、わたくしはその光の下で音楽を楽しんでいる最中だったのです。お越しになられた陛下も特に灯りを御所望あそばさず、楽を止めるように仰せでもありませんでしたので、そのとき部屋の中にはお声を妨げぬ程度の音量で歌劇が流れ、冴えた月光が差し込んでおりました。
『・・何と申し上げればよろしいの。言葉がみつかりませんわ』
 青みを帯びた光が、陛下のお顔の半分を照らしています。魅力的な御容貌だ、と改めて思いました。闇に隠れた半分は力強い稜線を描き、片や睫毛は繊細に先細りした長い影を投げています。陛下の独特の存在感と相まって、その対比は魔性めいたものさえ感じさせ、このまま正視していては自分がどうかなってしまうのではないかしらという気がして、わたくしはそっと目を伏せました。
『こういう時は恨み言の一つでも申すものだ』
『・・夢のようです』
『悪夢か』
『まあ、陛下』
 そこで陛下は初めて相好を崩され、低く笑われました。久方振りに拝見するそのお顔はどことなくやつれ、疲れておられるようにもお見受け出来ます。驚くと共に、胸締め付けられる思いが致しました。以前老爺から聞いておりました話も手伝ったのでしょう、陛下を取り巻く状況は決して良くないのだ、とわたくしには感じられました。
『息災そうだな』
『ええ』
『未熟者め、余の不在に嘆き暮らしていた、位の芝居は打って見せたらどうだ』
『涙など、とうに枯れてしまいましたもの』
『ふふ、悪くない切り返しだ』
『あの、陛下』
 突然の事態にぼうっとしていたせいでしょうか、一番大切な事を失念していることに気付き、わたくしは急いで陛下のお足元に跪いて頭を垂れました。
『本当に申し訳ございませんでした。お許し頂けるとは思いませんけれど、お詫び申し上げる機会を頂き、心より有難く存じます』
『・・これか』
 陛下は低く呟かれながら、薄暗い部屋の中、御自身の胸で月明かりを撥ね返して光る王章を見下ろされ、それからデキャンタに手を伸ばされました。
『わたくしが・・』
『よい』
 急ぎ中腰になって腕を伸ばしたわたくしを遮り、陛下はお手ずからグラスを満たされました。丸底の瓶をテーブルにお置きになり、お首から下げておられたそのペンダントを指先で弄ばれながら、片頬を上げて薄く笑われます。
『自分でもわからぬ。何がそんなに腹立たしかったものか』
『わたくしが勝手な事を致したからでございましょう』
『”触れてはならぬ”という話なら、大して本気で申した訳ではないぞ』
『でも大層お怒りでいらっしゃいました』
『それが解らぬと申しておる』
『はあ』
『これは滅多に壊れたりするものではないが、失くされでもしては事だからな。そなたにはまだ幼いところがあったゆえ、用心のためにそのように申したのだ。触られたと言って腹を立てた訳ではない』
 陛下は仰り、瞼を半分伏せて背凭れに身体をお預けになりながら、深々と息を吐き出されました。
『大切なものを暴いてしまったからでしょうか』
『うん?』
『わたくし、王后陛下の御髪(おぐし)にまで触れてしまいましたもの』
『・・何故あれのものだと思う』
『違うのですか?』
『訊ねておるのは余だ。答えよ』
『・・さあ・・・何故でしょう、咄嗟にそう思いました。青布に包まれていましたし』
『なるほど、余は青の意味についてそなたに話した事があったか』
『はい、王后陛下と王太子殿下にだけ許された貴色なのだと・・』
『あれは満足してはおらぬがな。確かにこれは王后のものだ。正妃には、王を守る特別な力が宿るとされている。それと通じ、その一部を身につける事で災難を払う事が出来るのだと言い、こうする事が慣例となっているが』
 伝承される間に、話が真逆になったのではないかという気がするがな。陛下は呟き、薄暗い笑顔を浮かべてお酒を煽られ、空になった杯を静かにテーブルに置かれました。
『なにやら、お身の周りが難しい事になっているのですか』
 陛下の、そうした荒んだような表情など初めて拝見致しました。わたくしはひどく落ち着かない、悲しいような気分になり、せめてお酔い頂きたいと瓶を手に取り、グラスにお酒を注ぎました。跪いたままでしたので、自分の首ほどの高さにあるそれにデキャンタを傾ける作業で、はしたなく腋を開かないようにするのが大変でした。
『暫く見ぬ間に変わったものだな』
 陛下はわたくしを興味深そうに見下ろされながら、椅子に戻るようにと顎でお示しになられました。
『以前はそのような事に関心を示すそなたではなかったが』
『そうでしょうか』
『少しは熟したということかな。余の不在が効いたか』
『まあ、何でも御自分のお手柄なのですね』
『来よ』
 陛下がいま少しお膝を開き、その上にわたくしを招かれました。
『嫌ですわ、今さらそんな』
 わたくしはすぐにでも飛び乗りたいと思ったのですが、女とはそうしたものなのかもしれません、少し焦らして差し上げようという気になったのです。
『いいから来るのだ』
『わたくしはもう、自由なのでございましょう?』
『ヴァイオラ、余を見るがよい』
 陛下はわたくしに指一本触れておられません。けれど既に、愛撫は始まっていたのです。お腹の中に直接響いて来るようなお声に、わたくしはその事に気付いて総毛立ちました。あの燃える氷のような薄色の視線が、鋭くこめかみを刺しているのを感じます。見てはいけない。理性が、そう訴えます。
『そう、自由だ。好きに振舞うがよい。そなたはどうしたい?』
『陛下』
『余を見るのだ。そして申せ』
 何が欲しい?陛下のお声は段々と低くなってまいります。
「用心なさるが良い」
 老爺の声が、耳の奥にはっきりと甦りました。 「彼に掛かれば、女達は誇りも理性もあったものじゃないのだ」
『嫌、お止しになって』
『どうした、余は何もしておらぬぞ』
 囁くようなお声が、わたくしを縛めます。尾の先で撫で下ろされる感触が背に甦り、わたくしの全身はどうしようもなく震え始めました。陛下はよく、その繊細で巧みな”もう一つの手”だけを使ってわたくしを弄び、のたうちまわって痙攣する様を御覧になって楽しんでおられたものです。
 陛下が、テーブルを向こうに押し遣りながらゆっくりと立ち上がられました。半分欠けた月を背にとぐろを解き、毛並みも艶々と鎌首を擡げたその尾は、陛下を危険で美しい淫獣のように見せます。
『跪け』
『へ、陛下』
『ひれ伏して請うてみよ。涎が垂れるほど余が欲しいのだと』
 到底勝ち目などございません。その頃のわたくしなど、陛下にとっては赤子よりあしらいの易い女だった事でしょう。自分では気付きませんでしたが、潤んだ目で陶然と陛下を見上げるわたくしは、本当に涎を垂らしていたのかもしれません。
『ああ、どうか・・』
 耐え切れず、わたくしは椅子から崩れ落ちました。衣服で締め上げた胴が苦しく、なお呼吸が荒くなります。部屋の中に、主人公の自害で幕を閉じる歌劇の、正に終場を迎えんとする歌姫の声が高く響いております。
『さあ』
 一際静かなそのお声に最後の箍が外れ、わたくしの空しい抵抗は終わりました。気付いたときには、わたくしは引き摺られるようにして這い蹲り、陛下の白いブーツの先にくちづけておりました。


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